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2015年9月25日 (金)

悲しき劇作家⑩

「語り得るもの」だけを語るな。「語り得るもの」しか書けないのなら、ペンを折れ、棄てろ。と、劇作家はかく「語る」のだ。前期ウィトゲンシュタインの『論考』の末尾において、「語り得ぬものには沈黙を」を(ウィトゲンシュタインふうにいうならば)、「語り得る」集合と「沈黙」という言語集合が存在し、「論理」は表出可能な、いいかえれば「発語可能」言語集合だが、「発語不可能」な表出は「沈黙」という集合に含まれると、そんなことをウィトゲンシュタインはいったワケではナイ。「語り得ぬものを」語ったがために、言語は混乱、混沌した。と、いいたかったのは、そんなところだ。例をあげれば、それこそが「哲学」を錯綜させたと。では「沈黙」は表現に値しないのかというと、ほんとうは「沈黙」こそは発語表現より大きな集合を持つのだ。大胆にいってしまうと、「語り得る」発語表現は指示表出として語られ、現在ふうにいえば「機能的言語」や「簡易言語」に貶められる。どんなって、「JK」とか「きしょい」とか「きもい」とか「チョー」とか「何気に」「さりげに」だが、これとて自己表出の偏角が在り、ゆえに座標点は持っているのだ。
しかしながら、「論理」ではすべては「語れない」とウィトゲンシュタイン言語哲学を良心的に解釈するとしても、「論理(語り得るもの)限界が、そのひとの世界限界である」という帰着にいたっては、とうていこれは、「劇言語としては認め難い」、「劇言語の集合には入らない」。もすこし難しくいうなら「劇言語としては対応不能ゆえ、劇言語としては何の了解も関係も持たない」ということになる。
むろん、俗っぽく「語り得ぬものには沈黙を」という命題が、語り得るものだけが、語り得るのだから、論理はそこまでだ、と「沈黙」を言語のごみ箱のように扱っている、この言語学派の一部にみられるような、また、論理実証主義と称される学説派閥のような、そこまで下司に、決めつけているのではナイ。とはいえ、後期ウィトゲンシュタインの『探求』における「言語ゲーム」論説にいたっては、行き着くところがハナからみえていて、まだ、『論考』のほうがオモシロイといわざるを得ない。
時々劇作家(私)は、『論考』の論理展開のようなことをいってのける。具体的にいうと、劇作家はよく「無神論」というコトバの矛盾について述べる。曰く「無神論」というコトバは成立し得ない(無神論者も同じこと)。何故なら「無〈神〉論」というふうに、すでにその集合の中に〈神〉を含んでいるのだから。

/社会が、ますます機能化と能率化を高度におしすすめてゆくとき、言葉は言葉の本質の内部では、ますます現実から背き、ますます現実からとおく疎遠になるという面をもつものであり、言語は機能化にむかえばむかうほど、この言語本質の内部での疎遠な面を無声化し、沈黙に似た重さをその背後に背負おうとする。つまり、コミュニケーションの機能であることを拒否しようとする/(『自立の思想的拠点』吉本隆明)

とりわけ、この言語の「沈黙」が持つ重要さを、最も早く日本において発見したのは岸田國士だった。この劇作家の優れた短編を〈読む〉とき、私たちはあきらかに「沈黙」のひたひたとした流れの中に在る。それはすでに、この劇作家の処女作「紙風船」おいて、すでに感じ(読み)とれることだ。何故、日常の一風景を描いてさへ、コトバが垂れ流されているという感覚を排除出来ているのか、それがこの劇作家の書く戯曲の「沈黙」のベクトルだからだ。つまり、登場人物が「語っていない」部分(沈黙なんだけど)こそが多くを「語っている(語らせている)」のだ。かくして、戯曲は「語り得ぬものには沈黙」ではなく、「沈黙」をこそ「語らせるもの」だと、措定され得る。

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