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2015年9月15日 (火)

悲しき劇作家⑦

/多くの著述は、それが未だに印刷されず、原稿のままで在る時、最も大きな悦びを著者にあたえる。人々は書いたものから、やがて刊行されるところの、光輝にみちた大著述を空想し、かくも優れた著者としての、誇に胸を轟かしている。しかしながら印刷され、書物が刊行された時に於て、初めの花々しい幻想は消えてしまう。それは世の常の書物であり、平凡と陳腐と無能の外、何の新しい創造でもない、貧しい財産の登録にすぎぬだろう。すべての著者はそれを感じ、前よりも一層貧しく、無力の自分を絶望してくる。
それ故に作家たちは、多くの著書を出した者ほど、比例に於て謙遜であり、自分への幻想を持って居ない。/(萩原朔太郎『虚妄の正義』)

劇作家の場合、同じ作品が何度も舞台化されることもあるので、著作数というよりも、上演数が問題となるが、それ以外は上記と変わらない。
この季節の変わり目に、「うつ病」を持病としている劇作家の状況は如何なものか。「うつ病」の度合い診断には、〈いま-ここに-いる-私〉がどのうような在り方をしているかで推し量るのが最も正確かつ単純だ。
うつ病患者の「いま」は、常にベクトルが過去に向いて、戻ってくるところの「現在」という時間がそれに該る。これは単なるノスタルジックや、センチメンタルではすまされナイ。四十年近いうつ病との争闘で、身につけた保身の術が、このベクトルの「いま」を少しでも未来に向けることで、劇作家(私)は常に未来に成就するのではないかという、希望(妄想)において、注文もナイ小説やら戯曲を書く。とはいえ、たいていは前述の朔太郎の論説はよくワカル。ただし、四十年以上、200曲以上の戯曲を書いてきた劇作家は、それでもなお、自らの未熟を識っているのだ。
「ここに」、という空間との関係は、逃げ場のナイ、路頭に迷っている自分に苛まれるということだが、貪欲なる劇作家は、そのような状況におかれた人間を主人公にして、少しずつ一種の不条理小説を書いている。こんな状況だから書けるかも知れないという、これもまた希望(妄想)という根拠しかもたないのだが。
この「いる」、居かたは、逆に自らを追い詰めたり、プレッシャーになることは大いに考えられることだ。しかし、劇作家は六十三年の人生において、幾度となく追い詰められ、絶望し、苦悶してきたもんだから、「オレより酷いひとっていっぱいいるんだから」と、映画『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』の主人公の少年のように「犬よりはまだマシなんだ」と希望(妄想)を抱いているのだ。犬よりマシなら、イイ。
銭がナイことを苦にすることはナイ。もう3~5年もすれば、日本は財政破綻するだろうから、国なんか潰れてしまえばイイんだ。劇作家は密かに思っている。「この国が壊滅、国家が滅亡してからが勝負だぜ」と。それが「私」に該る。

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