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2015年9月

2015年9月29日 (火)

悲しき劇作家⑭

「鶏頭牛歩」、ほんとうは「鶏口牛後」です。意味ですか、[大きな集団や組織の末端にいるより、小さくてもよいから長となって重んじられるほうがよい]「むしろ鶏口となるも、牛後となるなかれ」の略です。出典は『史記』ですナ。「鶏頭牛歩」のほうは、劇作家が創ったコトバ。意味ですか。[牛のようにでイイ、ゆっくり、確かに前進せよ。鶏のように鶏冠(とさか)だけ立派でも、三歩進んで総て忘れるような者になるなかれ]ですナ。「身につける」のがほんとうの「学問」です。鶏冠だけでワカッタふうになっているのは学問ではありません。

ところで、劇作家は突然「ここで死ぬのはイヤだナ」という思いに襲われた。どうしてかな、名古屋こそは40年の我が故郷と信じていたのに。この疑念は瞬時に払拭された。「ああ、そうなのか。ここ(名古屋)には過去(むかし)が多すぎるんだ」。しかも時間としては変容してしまった青春の時代が影のように、かつて光だったものが総じて隠滅なものとなって、しかも、それは、「いま-ここに-いる-わたし」にとっては現在形として劇作家を包んでいるのだ。「そうか、それに囚われていたのか」。居心地のあまりよくなかったのはそのせいか。「ここにはもう、私の過去しかナイんだ。それが現在のように私を捉えていたんだな」。劇作家はやっと気がついた。これは「うつ病」の症状にある〈本質〉だ。すると、今度はこれも電撃のように劇作家の脳髄を過った。いわゆる、インシデンタルなインスパイアというヤツだ。
「引っ越そおっと」
で、来年早々、○○へ引っ越す決心をした。劇作家の過去(むかし)などナイところで、かつ劇作家の過去を空間的につないでいる場所へ。難しくいえば、そこは空間制が時間制として変容しているところだ。こういう inspiration は楽しい。悪いふうにいえば、うつ病の躁転移なのだが、そういうものは、長年の疾病の経験から、劇作家には controlすることが出来る。これを利用するに過ぎたことはナイ。人間、やっぱ、考えるべき。潜在的に常に思考をやめないのは、物書きとしての業でもあるが、徳でもある。
「山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」
この空也聖人の歌は、一読すると「ケ セラ セラ」の感もある。「ケ セラ セラ」はヒッチコック監督映画『知りすぎていた男』の主題歌で、主演女優で歌手でもあるドリス・デイ(Doris Day)が歌ったことで知られているが(この映画において歌詞の意味は〈なるようになる〉と字幕にある)、だが、ほんらいの意味は、違う映画『裸足の伯爵夫人』(ジョゼフ・L・マンキウィッツ監督・ハンフリー・ボガード、エヴァ・ガードナー)に登場する。この映画では、裸足が好きだったスペインのダンサーのマリア(エヴァ・ガードナー)が、ハリウッド女優となり、ついには伯爵夫人となるのだが、その貴族の家訓が「Que Será, Será」なのだ。(ここでの意味は〈起こるべきことは必ず起こる〉なのだが、字幕翻訳者は間違って、ヒッチコックのほうから引っ張ってきているために、かなり物語との違和感が生じるのは残念。「Que Será, Será」は「なるようになる(Whatever will be, will be)」という意味のスペイン語だとされることもあるが、実際はスペイン語の文としては非文法的であり、スペインで用いられた歴史もない)。ちなみに同監督は、姉妹編として、演劇(女優)の映画『イヴの総て』を撮っているが、こちらも有名。シークエンスを同じふうに撮っているのも、まったくそれを意識してのことだと思われる。
さて、本歌にもどって「橡殻」は「トチの実」のことで、積極的に読めば「山河に流れるトチの実でも、その身を捨てるべく思いにさへなれば、大海に浮かぶこととなる」になる。
空也聖人は仏教のひとだから、「その身を捨てる」は、キリスト教のように「犠牲」とか「供物」を意味しない。これは「諸法無我」のことだ。
というワケで、六十三歳の劇作家は「橡殻」となり、流れ流れていくのだった。
ηどこで生きても流れ者 どうせさすらい独り身の 明日は西やら東やら 今日のねぐらは風に聞け 可愛いあの娘の胸に聞け ああ、うんじゃら流れ者
「渡世とは、世渡りの術ではナイ。世界(カオスとコスモス)を渡ることをいう」
と、この辺で、躁転移を抑制しとかないとな。

2015年9月28日 (月)

悲しき劇作家⑬

/神々がシーシュポスに科した刑罰は、休みなく岩を転がして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。/
/無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。シーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下の方の世界へところがり落ちて行くのをじっと見つめる。その下の方の世界から、ふたたび岩を頂上まで押し上げてこなければならなぬのだ。かれはふたたび平原へと降りてゆく。/
/こうやって麓へと戻ってゆくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる。岩とこれほど間近に取り組んで苦しんだ顔は、もはやそれ自体が石である!いわばちょっと息をついているこの時間、かれの不幸と同じく、確実に繰り返し舞い戻ってくるこの時間、これは意識の張り詰めた時間だ。かれが山頂をはなれ、神々の洞穴のほうへと、すこしずつ降(くだ)ってゆくこのときの、どの瞬間においても、かれは自分の運命よりたち勝っている。かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ。/頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。このとき、途方もない言葉が響きわたるのだ、「これほどおびただしい試練をうけようと、私の高齢と私の魂の偉大さは、私にこう判断させる、すべてよし」と。/(『シーシュポスの神話』・カミュ)
劇作家は、高校生(十六歳)のとき、この先、自分が生きて行けそうな道など何処にもナイと、ガッコを卒業したら自死する気でいた。ところで、若いというのは可愛い無知ですナ。アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』に出逢って、『ペスト』を読んで、リウー(ベルナール・リウー、『ペスト』の主人公に該る。医師)はなんてカッコエエねんと、自死を家出に変更することに決めた。積極的逃避や。
/あきらめるというと絶望かと思うんですけども、そうじゃなくて、「まあ、いい」と言う「いい」は、「どうでもいい」のではなくて、「良しとしよう」の「良し」なんです。/人生は短し、夜は長し/ひとときの合縁奇縁を喜んで、千の夜を万に味わうが勝ち/「とかく永い浮世に短い命なる事ならばずい分遊んだが徳さ」/今の大人は、真面目に命を削って遊ぶことを知らない。/考えざる者、遊ぶべからず。/とかく、酒と女は褒めるべし。批評すべからず愉しむべし。/もてようと思ったら、やせ我慢しなくちゃ(笑)/医者にはなるべく近づかない。ポックリ逝くためには心臓は弱いほうがいい。一方、頭はなるべく使って鍛えておく。/体にいいことはしない。それから体に悪いもの、とくにアルコールは積極的に取るようにしています。/去年できたことが今年できないという自分を受け入れたい。老いを積極的に認めたいです。/なかには、かしこく、りっぱに、歳をとるひとも少しはいるのだろう。ちっとも、羨ましくはないけれど。/生きているヒトは、自覚のあるなしにかかわらず、みんなビョーキの容れ物だ。/(『憩う言葉』『粋に暮らす言葉』・杉浦日向子)
一度、白水社の関連で対談しました。日向子さんも、まだブレイク直前でしたから、駆け出しの劇作家と対談なんてしている余裕があったんでしょう。江戸の話をたくさん聞きましたが、資料、学問、というより、ご自分の住んでる町の話をされているようでした。とても可愛いひとでした。「手を出しちゃダメですよ」と、きつく編集者にいわれました。

2015年9月27日 (日)

悲しき劇作家⑫

四十代の後半くらいか、それとも五十を過ぎてからか、「隠遁」てな暮らしにちょっと憧れたりした。で、いまは六十三で、半分は自然に隠遁みたいなことになっていて、演劇屋という種類のにんげんは、東京にいないと忘却されるんだな。東京にいても忘却される者は仕方ないけど。地方(東京以外)にいると、なんか「その他」みたいなことになって、小劇場演劇というのも、いまでは「アマチュア演劇」というふうにコードされているし、演劇も、時代によって変わらぬもの変わったもの、ありますワ。まあ、大阪が「地方都市」といわれる時代ですから。橋本がジタバタすんのも、ワカランでもナイ。でも、あのひとジタバタして、日照りつづきに埃をたてているだけみたいだけど。
隠遁も「淫遁」とかになると、「隠れ花園」「秘密の花園」みたいで、ちょっとした小ハーレムみたいで、まさに江戸川乱歩ワールドなんだろけど、隠遁でも銭がかかるのに、よほど銭に余裕がナイと、そういうのは無理ムリ。銭に余裕があるのか、何かシュー・キンペーがどっかマチガッテいるのか、渡航費まで出して中国人が日本製の「使い捨て紙おむつ」を爆買いとかしてると、マスコミいうてるけど、立地のエエところの億ション買い漁ってるのも中国人でっせ。もちろん、直接にではナイと思いますが。直接にそんなことしてバレたら、「虎も蠅も」のどっちかで叩かれるからな。しかし、いくら叩いても中国四千年の賄賂政治が、今更、良くなるとは思えんな。
話かわって、若い劇作家はいったい何を考えて(具体的にいうと、どういう明日を思い描いて)演劇やってんだろうネ。映画『イヴの総て』で描かれていた時代も懐かしく感じるご時世だ。その点、音楽屋は歳とっても、独り、渚というか浜辺でペット吹いてたり、公園でギター爪弾いていたりしても、哀愁あってヨロシな。駅前はなあ、あんまり好きではナイです。「売り込みィ~」つう感じが強いんで。インディーズもそれなりにタイヘンでしょうが、プロ歌手はタイヘンですよね。10年、20年前ならホールで1000人単位の客、いまじゃライブハウスで80人。年中ドサ回り。それはそれでエエ道楽だと思うんですけど。だいたい、歌みたいなもんが、被災者を慰めるてなこと、被災者のほうに余裕がナイとでけしまへん。被災地(というところを勝手に決めて)に出かけて、そら、あんた宣伝でんがな。やっぱり被災地が待ってるのは杉良太郎さんのほうですな。(このへん、100田さんは正しいと思う)。何事も衣食足りてですから(住もそうです)。
あるひとがですね、社長になって、着ぐるみ(当時はぬいぐるみといいました)のショーイベント始めたのは、そのイベントで稼いで食っていけるようにして、好きな芝居の舞台の一つもやれるようにというのが目的でした。私も創設メンバーで、寂れた駅に近い六畳のアパート(最初の事務所)で電話番してました。やがて事務所は大きくなりました。東京と神戸にも事務所を持つようになりました。とはいえ、そのひとが舞台に立つ姿を観たことはありません。ここにも時代は押し寄せて、いまは殆ど仕事はありません。劇作家は事務所全盛の頃、着ぐるみも被りましたが、10分の着ぐるみ劇を何本も書きました。これがいまの劇作家の基(もと)です。
ずっと仕事を〈労働〉としてやってきました。いまは仕事を〈道楽〉だと思ってやってます。とはいえ、労働のときは木刀でやってたのに、道楽にしてからは真剣を抜くようになりました。オカシナもんだと思われましょうが、真剣勝負、活殺(生き死に)が係った立ち合いがイチバン面白い道楽になります。斬っても斬られても、血が流れます。

2015年9月26日 (土)

悲しき劇作家⑪

若い劇作家に未来がナイことは、つらいことだ。六十を過ぎてビンボーするよりなおツライ。劇作家(私)は六十年以上生きたんだから、もう、明日などどうでもヨロシイ。しかし明日来るひとの明日がナイのは、昨日を過ごした身に、ただ哀しい。
五十代を過ぎると、口から出るコトバは、「愚痴」か「説教」だとよくいわれるが、それなら文学など、その多くは愚痴か説教の延長にあるといわねばならない。その伝でいえば、「哲学」ってのは「居直り」かね。「宗教」、こいつは「無い物ねだり」と。
安全保障法案の是非がどうであれ、劇作家が観たのは、政治家の反吐が出そうなほどの狡猾さで、あれよあれよ、どれよっ、んっ、てなことを思っているうちに、憲法9条を素通りして、自衛隊の海外派兵を可能にしてしまった。出来るんだナァ。
公明党常任役員会代表山口那津男ってのはアレだな、目の表情がまったくカワンナイ。こないだ報道番組で、学会員が集めた学会員の法案反対署名9000人分を手渡そうと、呼びかけ人代表が、雨の中、何日も党本部の玄関前に佇んでいるのを、これ以上は国民の反感につながると判断して受け取ったときのひとことが「党規約にはナイので」とかなんとか、なんだか、なんやね、なんやわからん、こというてたな。そういう党はアカンな。
自民党が、もはや公明党を員数として必要としないのに、与党のままにしておくのは、もちろんそれ相応の弱みを握られているからにはチガイナイのだが、公明党にいわせれば、「汚れ仕事はみな、うちがやってきたんだからナ」と北叟笑んで(北叟とは、北方の老人をいうが、全体の意味としては、「人間万事塞翁が馬」(「淮南子」)だと笑ってる、てなことになる)いればイイだけのこと。これまた、政治の裏表の恐ろしさだ。
安保法案に関しては、「よくワカラナイ」が国民多数の常套句のようになっているが、つまるところ、その〈根拠〉が判然としないということだとしか思えない。これについての安倍ソーリの常套句は「国民の安全と幸せな生活を守るため」で、何度も何度も聞かされたもんで、納戸に入りきらなくなっているくらいだが、国民がいま「どんな危機」にさられれているかは、秘密保護法案によって、情報が出てくることはナイだろうし、というか、秘密保護法案というのは、日本国家、政治、政権の秘密ではなく、合衆国から入ってくる情報の漏洩を防ぐための法案だということくらいは、知っておいたほうがイイ。従って、日本の「危機」「危険度」は、自衛隊の情報機関より、合衆国のほうが、よくご存知なのであります。具体的にいえば、いいんだろうけどね「日本はこんだけ危ないんです」と。まあ、アメリカが、早いとこ法案つくれ、といってきたので、すぐにヤリマス、ということになったと。こんなところですね。だから〈根拠〉などワカルわけがナイのはアタリマエですわ。「幸せな生活」ってところで、いつも劇作家は、愕然とする。慄然とする。呆然とする。アホになる。日本国民で安倍ソーリのいうところの「幸せな生活」とはなんやワカランから。とりあえず公務員は銭の心配せんでエエからそのぶんは「幸せ」かも知れない。この国にほんとうに格差があるとしたら、公務員と一般国民の生活格差だけだナ。100田さんが、「格差というなら、時間的にはもっと酷い時代は歴史を遡ればいっぱいあった。空間的には世界の多くの国で超格差のビンボー人は大勢いる。それに比すれば、日本に格差などナイ」と、いうてんねんけど、このひと、エエこといっぱいいうて、イイ小説も書いてんのに、こういう思想のナイこというから信用されへんねん。絶望と落胆にはもう厭きた。100田さんに足らんのは、たぶん、絶望やと思うワ。曰く、お気楽。やっぱ大阪のテレビマンはそれくらいやないとナ。
と、本日の劇作家のモーソーでした。

2015年9月25日 (金)

悲しき劇作家⑩

「語り得るもの」だけを語るな。「語り得るもの」しか書けないのなら、ペンを折れ、棄てろ。と、劇作家はかく「語る」のだ。前期ウィトゲンシュタインの『論考』の末尾において、「語り得ぬものには沈黙を」を(ウィトゲンシュタインふうにいうならば)、「語り得る」集合と「沈黙」という言語集合が存在し、「論理」は表出可能な、いいかえれば「発語可能」言語集合だが、「発語不可能」な表出は「沈黙」という集合に含まれると、そんなことをウィトゲンシュタインはいったワケではナイ。「語り得ぬものを」語ったがために、言語は混乱、混沌した。と、いいたかったのは、そんなところだ。例をあげれば、それこそが「哲学」を錯綜させたと。では「沈黙」は表現に値しないのかというと、ほんとうは「沈黙」こそは発語表現より大きな集合を持つのだ。大胆にいってしまうと、「語り得る」発語表現は指示表出として語られ、現在ふうにいえば「機能的言語」や「簡易言語」に貶められる。どんなって、「JK」とか「きしょい」とか「きもい」とか「チョー」とか「何気に」「さりげに」だが、これとて自己表出の偏角が在り、ゆえに座標点は持っているのだ。
しかしながら、「論理」ではすべては「語れない」とウィトゲンシュタイン言語哲学を良心的に解釈するとしても、「論理(語り得るもの)限界が、そのひとの世界限界である」という帰着にいたっては、とうていこれは、「劇言語としては認め難い」、「劇言語の集合には入らない」。もすこし難しくいうなら「劇言語としては対応不能ゆえ、劇言語としては何の了解も関係も持たない」ということになる。
むろん、俗っぽく「語り得ぬものには沈黙を」という命題が、語り得るものだけが、語り得るのだから、論理はそこまでだ、と「沈黙」を言語のごみ箱のように扱っている、この言語学派の一部にみられるような、また、論理実証主義と称される学説派閥のような、そこまで下司に、決めつけているのではナイ。とはいえ、後期ウィトゲンシュタインの『探求』における「言語ゲーム」論説にいたっては、行き着くところがハナからみえていて、まだ、『論考』のほうがオモシロイといわざるを得ない。
時々劇作家(私)は、『論考』の論理展開のようなことをいってのける。具体的にいうと、劇作家はよく「無神論」というコトバの矛盾について述べる。曰く「無神論」というコトバは成立し得ない(無神論者も同じこと)。何故なら「無〈神〉論」というふうに、すでにその集合の中に〈神〉を含んでいるのだから。

/社会が、ますます機能化と能率化を高度におしすすめてゆくとき、言葉は言葉の本質の内部では、ますます現実から背き、ますます現実からとおく疎遠になるという面をもつものであり、言語は機能化にむかえばむかうほど、この言語本質の内部での疎遠な面を無声化し、沈黙に似た重さをその背後に背負おうとする。つまり、コミュニケーションの機能であることを拒否しようとする/(『自立の思想的拠点』吉本隆明)

とりわけ、この言語の「沈黙」が持つ重要さを、最も早く日本において発見したのは岸田國士だった。この劇作家の優れた短編を〈読む〉とき、私たちはあきらかに「沈黙」のひたひたとした流れの中に在る。それはすでに、この劇作家の処女作「紙風船」おいて、すでに感じ(読み)とれることだ。何故、日常の一風景を描いてさへ、コトバが垂れ流されているという感覚を排除出来ているのか、それがこの劇作家の書く戯曲の「沈黙」のベクトルだからだ。つまり、登場人物が「語っていない」部分(沈黙なんだけど)こそが多くを「語っている(語らせている)」のだ。かくして、戯曲は「語り得ぬものには沈黙」ではなく、「沈黙」をこそ「語らせるもの」だと、措定され得る。

2015年9月17日 (木)

悲しき劇作家⑨

/つまらぬ仕事などはないのだ、いったんやり出したならば。それは人の知るとおりだ。刺繍もはじめの幾針かはあまり楽しくもない。しかし、縫い進むにつれて、その楽しみが加速度的に倍加する。だからほんとうに、信じることが第一の徳であって、期待することは第二の徳にすぎないのだ。なぜなら、何ひとつ期待することなく始めなければならないからだ。/(アラン『幸福論』)

演劇は「面倒くさい」営為だ。これほどリスクの高い営為も他にはナイ。high risk no return.なおかつ、演劇の稽古というものは「面白くナイ」。鹿島茂老子にいわせると、いまの若者は(いやいや、中年も壮年も爺も婆もだ)というか日本人は「面倒くさくて面白くナイこと(もの)」はやんないっ。つまり、この正反対の「面倒くさくなく面白いこと(もの)」しかやんない。それが何故「面倒くさい」のか、それが何故「面白くない」のかと「考える」ことも「面倒だからやんない」。しかし、現にいま演劇をやってる連中もいないワケではナイ。そういう連中は大きく分けると二つになる。一つは演劇というものが、「面倒くさいからこそ面白いのだ」ということに気付いた人々。もう一つは「みんなとワイワイやってアトで一杯やってが楽しい」という、私はこれを「寄り合い芝居」というふうに称することにしたが、つまり、落語の「寄り合い酒」だ。前者は、〈銭がナイなら知恵を出せ、知恵が出ないなら汗をかけ〉という格言に目覚めたといってイイ。確かに銭がナイことは、どうしても確かなのだ。「今回は予算がナイので」というコトバを私は何百回となく聞いた。「今回は予算が潤沢なので」というコトバを聞いたのは、いわゆるバブル日本の数年のあいだの数回だ。何でこうも銭がありさへすれば解決出来ることが多すぎるのか、と泣いているヒマがあったら、では、どうするか「創意」と「工夫」で「考える」しかナイのだ。これが縫い始めの一針二針だが、最もたいせつなものはそこに凝縮されている。と劇作家は経験上、学習している。ところが、現状で知る限りの小劇場劇団系の戦略は、どれもこれも、帝国陸軍のインパール作戦を思わせるものばかりだ。楽しみが加速度的に倍加するどころか、本番が近づくに従って、矛盾、苦渋、ムチャクチャ、綻びどころかズタズタ破れ、姑息、やっつけ、の度合いは増加し、辿り着くのに地獄の思い。それでも、どうにか辿り着いたら、過程は忘却、宴会の酒に流す。こんなことを繰り返していたら、つまらなくなるのは当然じゃないか。不幸になるのはアタリマエじゃナイか。
そこで、編み出される術(すべ)が「面倒くさくない」演劇というヤツだ。鋳型タイプの素麺流しという(ってどんなのか、知らんが、そんなふうな感じがしたから、そう書いた)出来合いのものに、とりあえず、素麺でも流しておけば食えるだろうというモノだ。
ところで、私はオリジナルなものをやれといっているのではナイ。鋳型でもイイ。素麺でもイイ。稽古初日から一週間は、台本検討(正確にいうと戯曲を台本化する作業)にあてるくらいの粘りがあってもイイじゃないか。さすがに商業演劇は稽古時間が短いので、そうもイカンけど(商業演劇の初演初日を観に行くとオモシロイぞ。弟子や裏方のプロンプやカンペ看板がやたらと目につく。とはいえ、老舗の新劇なんかでも、巡回公演する場合は、まず地方公演から始めて、東京公演を迎える頃に出来上がるなんてことをしてたんだからな)。台本化検討たって、まだ台本(戯曲)がでけてへんねん。たいてい耳にするのはこれだ。締め切り遅れは商業演劇なら違約金だぞ。小説雑誌(マンガも含む)なら、たとえ落ちても(間に合わなくても)編集者の血と涙の徹夜の努力で、本にはなるが、演劇はそうはいかない。スタッフも役者も、仏頂面をひきつる笑顔に隠し、ただ、本書きの御仁だけが、「それがどうしたってんだ。稽古しながら、創っていくっていう手もあるんだぜ」と、何処吹く風の柳の枝だ。
締め切りを守るのと、そうでナイ劇作家を分かつ理由は一つしかナイ。要するに「舞台の本を書くこと」で食ってるかどうかという、生活経済だけだ。独り身ならまだしも、家族(妻子)があればなおさらだ。(まあ、なんつうか、妻のほうが〈お水〉とかやってくれてりゃ、楽でしょうけど、そんな劇作家は劇作家(私)は軽蔑する)。例外なのを一つだけ知っているが、つまり妻の家が富豪なのだ。そういうのは、その劇作家にとって運が悪かった(良かったワケがナイ)だけだ。
私もかつて劇団をやっていて、運が良かったことに役者がすべて下手だった。それを名古屋から、本場の東京に持っていったのだから、戦略は当然必要になるのだが、私の場合はそんなに難しい戦略などではナイ。単純に「東京にはナイ芝居を創ろう」と考えただけだ。これは寺山修司センセが、最後まで東京人になることを拒絶したのとはチガウ。また、名古屋方言芝居てのを、大発明かのようにやった劇団の方法論ともまったくチガウ。
私が戦術的(戦略ではナイ)にやったことは、最初の一針のために、本を早く提出して、下手な役者が本を読める時間をなるべく長くしようとしたことだ。現場百遍、本百遍。いくら下手でも、それだけやれば、何とかナルんだ。唐十郎さんは、いまでは大ベテランの演出家(兼、劇作家・役者)に自分の戯曲を書き下ろして手渡すさい、「百回読みなさい。それから稽古を始めなさい」と述べたのは有名(でもナイけど)なエピソードだ。

2015年9月16日 (水)

悲しき劇作家⑧

/2014年5月9日、財務省は、国債や借入金を合わせた「国の借金」が2013年度末で過去最大の1024兆9568億円となったと発表した。「国の借金」のうち、国債は853兆7636億円となった。/

国家財政が破綻すると、困るのは一般国民ではナイ。アタリマエのことだが、国家公務員と地方公務員などの公務員だ。確定申告をしている私たちは知っているが、それによって納められた税金の48%は、公務員の生活費として消えていく。国債に頼れなくなると、税率を上げればイイだけの話で、現行8%の消費税率は、10%が2~3年続いて、つぎに12%になり、そうして15%になり、放っておけば20%くらいまではいくにチガイナイ。そうしないと公務員が食っていけないからだ。
いつだったか(って、ついこの前だろ)民主党が政権奪取したとき、その評価は分かれたものの、「仕分け」という公共財(団体)のみなおしをやったが、というか、民主党がやったことで、自民党とチガッタこととといえば、アレしかねえもんな。鳩山総理は沖縄からの米軍基地をどっかへ移転するなんて大見得きったけど、「やっぱり沖縄基地って大事なんだ。海兵隊ってそういう仕事してたのか」と、開いた口がふさがらないどころか、口裂け女になるがごとき無知を曝け出した。たぶん、このひとは、世間一般のどんな仕事をさせても、勤務時間に裏口で煙草なんか喫ってて、上司から注意されたら「ああ、ちょっと草臥れたんで、一服です。あはは」てな具合のひとなんだろうな。管総理にいたっては「東北にドリームタウンを造ろう」てなことを震災のアトで、これまた大見得。漁師がドリームタウンのごとき、おかしな町を欲しがるワケがなかろう。
まず、全国のこういう政治家から、公務員にいたる全てを仕分けしましょう。と、劇作家が夢想していることは、鳩山や管の妄想とカワラナイかも知れないが、要するに直接税を48%全部とはいわない、12%分カットして(つまり公務員の給与を直接税の36%に落すだけでイイ。それでも充分、一般人より待遇はイイはずだ)所得税を減税せよ。現実には公務員の数を減らすというフィジカルな方法でもイイ(これ、ほんとの仕分けネ)。でないと、いつまでたっても、消費者の財布の紐はかたい。どころか、紐をゆるめて口を開けても、肝腎の銭が飛び込んでくれやしない。国債がダメなら消費税があるさ、では、これもキリがナイんだから。消費税が120%になったら、と、イメージしてごらんよ。おんなじことなんだぜ、商品以外に銭とられているということは。

2015年9月15日 (火)

悲しき劇作家⑦

/多くの著述は、それが未だに印刷されず、原稿のままで在る時、最も大きな悦びを著者にあたえる。人々は書いたものから、やがて刊行されるところの、光輝にみちた大著述を空想し、かくも優れた著者としての、誇に胸を轟かしている。しかしながら印刷され、書物が刊行された時に於て、初めの花々しい幻想は消えてしまう。それは世の常の書物であり、平凡と陳腐と無能の外、何の新しい創造でもない、貧しい財産の登録にすぎぬだろう。すべての著者はそれを感じ、前よりも一層貧しく、無力の自分を絶望してくる。
それ故に作家たちは、多くの著書を出した者ほど、比例に於て謙遜であり、自分への幻想を持って居ない。/(萩原朔太郎『虚妄の正義』)

劇作家の場合、同じ作品が何度も舞台化されることもあるので、著作数というよりも、上演数が問題となるが、それ以外は上記と変わらない。
この季節の変わり目に、「うつ病」を持病としている劇作家の状況は如何なものか。「うつ病」の度合い診断には、〈いま-ここに-いる-私〉がどのうような在り方をしているかで推し量るのが最も正確かつ単純だ。
うつ病患者の「いま」は、常にベクトルが過去に向いて、戻ってくるところの「現在」という時間がそれに該る。これは単なるノスタルジックや、センチメンタルではすまされナイ。四十年近いうつ病との争闘で、身につけた保身の術が、このベクトルの「いま」を少しでも未来に向けることで、劇作家(私)は常に未来に成就するのではないかという、希望(妄想)において、注文もナイ小説やら戯曲を書く。とはいえ、たいていは前述の朔太郎の論説はよくワカル。ただし、四十年以上、200曲以上の戯曲を書いてきた劇作家は、それでもなお、自らの未熟を識っているのだ。
「ここに」、という空間との関係は、逃げ場のナイ、路頭に迷っている自分に苛まれるということだが、貪欲なる劇作家は、そのような状況におかれた人間を主人公にして、少しずつ一種の不条理小説を書いている。こんな状況だから書けるかも知れないという、これもまた希望(妄想)という根拠しかもたないのだが。
この「いる」、居かたは、逆に自らを追い詰めたり、プレッシャーになることは大いに考えられることだ。しかし、劇作家は六十三年の人生において、幾度となく追い詰められ、絶望し、苦悶してきたもんだから、「オレより酷いひとっていっぱいいるんだから」と、映画『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』の主人公の少年のように「犬よりはまだマシなんだ」と希望(妄想)を抱いているのだ。犬よりマシなら、イイ。
銭がナイことを苦にすることはナイ。もう3~5年もすれば、日本は財政破綻するだろうから、国なんか潰れてしまえばイイんだ。劇作家は密かに思っている。「この国が壊滅、国家が滅亡してからが勝負だぜ」と。それが「私」に該る。

2015年9月13日 (日)

悲しき劇作家⑥

向こう三軒どころか、両隣、いったいどんなひとが住んでいるのか知らない。いまの街のマンション、アパートってのは、そんなもんだ。
ところで、今夜の晩飯の素材を買って、そんなマンションにもどってきた際だ。カレーの匂いがした。「ああ、今宵、いずこかの晩餐はカレーライスかあ」。ひとが住んでるんだなあと、腹に沁みた。カレーライスってのは、いいなあ。独り暮らしだとレトルトで間に合うので、なかなか本格的なものはつくれない。いずこは何をするひとぞ、隣近所は何をするひとぞ。ともかくカレーライスは食うひとぞ。こんな市井の生活を感受することに、自己の時間と空間の感覚を正常にもどしてくれる何かがひそんでいる気がする。
べつに急転直下で話題を変えるワケではナイが、「色即是空 空即是色」の「空」を私はずっと「現象=表現」というふうに訳していた。ところが、これはちょっとチガウということに気がついた。チガッテもちょっとで、「空」とは「時間と空間の現象=表現」とすればイイだけなんだけど、もう少し詳細にいうと「時間」と「空間」は分けるものではなくて、一緒のものだ。「色」とは、その時間と空間の化身(まあ、『般若心経』は菩薩の考案だから〈化身〉といっておきましょう)。ところで、空間というのは、かなりよくワカル、と、私たちは思っている。だって、部屋をみまわすと空間は存在するし、デスクも本もベッドも、物質、つまり空間を持つものの実体として認識出来る(しやすい)というシロモノだけど、時間は、確かに在るということは(自然な、というか常識的に)感覚としては充分に認識出来るのだけど、これを実体として識知するとなると、とつぜん「えっ、なんだろ」になる。ここは分けてはいけないのだ。
いきなり、市井の生活のカレーライスから話は大きくなるが、宇宙開闢については、さまざまな「説」「論」がある。で、けっきょくのところ、いまでもよくワカッテいない。私の知っているかぎりでは、宇宙を創るのに飛び出てきたのは量子一個なんだけど、それまで、そこは空間も時間もナイ、無の状態だったというのだが、これはもう三次元思考ではイメージ出来ない。(そこって何処、てな具合だ)。とはいえ、「無の状態」というのを、『般若心経』的に「空」とすれば、それは空間でも時間でもナイ、量子力学的にいう「場」とスルことも可能なのではナイだろうかと思ったりもスルんだけどネ。ともかくも、この宇宙にあるものは、非アリストテレス的に、すべて根本は同じ素材で出来ているとしなければ、イケナイ。なんとならば、量子がただ一個(あるいは一つの波動、これをゆらぎというらしいが)だけなんだから。この量子一個がつまり、10の-44乗秒後に膨らんで爆発して宇宙を創成する。この量子が何処から出てきたのかというと「トンネル効果」で出てきたとかいうんだけど、そういう便利なトンネルの向こうに何があるのか、私にはよくワカラナイ。とりあえず、そういう便利なトンネルがあったとしておこう。なにしろ、ワカンナイんだから、何があったって「神、創造主がいて」といってるのと、さほど差異はナイ。ところで、時間のほうは10の-44乗秒後でも一向にカマワナイ。量子力学的時間だと考えれば、量子一個の膨張、爆発までの時間は、無限としてもイイからだ。
えーと、つまりだ、最初(最初が在ったのかもほんとうはワカラナイんだけど)は「空」であったと。それを量子がテッポで撃ってサ、煮てサ、焼いてサ、ではなく、狸じゃナイんだからナ。そうしたらトンネルから量子が出てきて、空間と時間を創ったと。それによって粒子と反粒子が生成され、まあ、ともかく、いま現在この世(宇宙・世界)にあるものは全て、空間と時間が創ったと、そういいたいだけなのだ。
そこで、「部屋をみまわすと空間と時間は存在するし、デスクも本もベッドも、いってみれば思考さへも空間と時間」なんだ。空間は実体としてワカリヤスイが、私たちは時間をただ「流れゆく」実体のナイものと思い込んでいるだけで、私たちの、この私のカラダもいうなれば実体としての時間というものなのだ。実体として認識出来る時間には、三つの形態がある。「固有である」「普遍である」「相対である」。
もう少しチガウ観点からいうと、時間の実体というのは「熱エネルギーの第二法則」として識知すると、ワカリヤスイかも知れない。私たちが生まれ、育ち、老いて、死ぬというのは、私たちの時間としての実体のエネルギーの盛衰に他ならない。
そこら中に在るもの、私の内にあるものですら、全て時間と空間が創ったもの、「時間と空間の現象=表現」なワケで、これを「空」といい「色」という。唯物論のいうように、時間は物質の〈属性〉なんかではナイ。物質の〈本質〉というワケだ。
「結えば(結べば)庵、解(ほど)けば草原(野原)」というのは、時間の比喩としても譬えとしては最も適切だナ。
こういうことを劇作家はぼんやりと考えた。これからもぼんやり考えると思う。

2015年9月 9日 (水)

悲しき劇作家⑤

なんだろうねえ、起きる、目覚めるといつも妙な感覚に苛まれる。恐怖感(に似ている。コワイからな)でも、そうでもナイ。孤独感(というのは持ったことがナイ。退屈ならワカルけど)、だからチガウんだなあ。今日もそうだったから、ともかくヤサから外に出て、赤蜻蛉みながら、考えた。それで、やっと行き着いたのが「喪失感」だ。じゃあ、何を。自分をか、とんでもない。自我はまだ崩壊してませんワ。そういう空間的なもんじゃナイんだが、と、思いつつも、そうねえ、空間も関係ありそうだなあ。と思案して、アイスコーヒー飲んで、赤蜻蛉みて、ふいに、ああそうか「空間」じゃナイんだったら「時間」だ。自分ではなく「自分史」という「時間」を喪失している。オレが、ここまで生きてきた史実というのがあるはずなんだけど、その実感が無い。とつぜん、ある時空にヒョイと現れたように目覚めるんだワ。確かに昨日もここにいた。ここで寝たからここで目覚めた。風景は寸分のチガイもナイ。けれども、記憶障害者のように、自分の過去に対する実感がナイ。まあ、過去というものは実体として存在するものではナイから、無くてもイイんですが、「思い出」とか、あるじゃナイか。それが消えるんだなあ。消えてるんだなあ。「俺たちに明日はない」てな映画があったけど、オレの場合は逆だ。「俺には昨日がナイ」みたいな気がする。そういう「喪失感」。記憶はあるんだ。昨日ナニ食ったかとか、六十三年生きてきて、なんだかいろいろあったなあとか。しかし、それは記憶であって、実感じゃナイ。そうでなくてもよかったし、そうでなかったかも知れないという、奇天烈な感覚。極めると「オレがいなくても宇宙はあるのか」という不快な諦念。未来に対する徒労。
たぶん、ハイデガーは『存在と時間』で、「存在とは何か」ではなく「時間とは何か」を主題にしたんだと思う。この時間に対して存在とは何なんだ、だ。そうなんだよなあ。ひとは、自分という、自己という存在を喪失するンじゃナイんだ。ナンダカわからんけど、時間を喪失するんだ。「色即是空 空即是色」てのは、あれだぜ。「空」という文字にごまかされちゃうけど、ありゃ、時間論だな。だって、仏法の三宝印「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」って、これすべて「時間論」だもんなあ。と、すると、そうかあ。この「喪失感」てのは、「空」の感覚か。「結べば庵、解けば野原」。まあ、そんなふうにふわふわと浮遊しているのも慣れればワリとイイものかも知れない。そう思っておくか。

悲しき劇作家④

仕事ナイねえ。困ったナア。不況ですよ。オレなんか、この半年、書き仕事は二件。こういうことを考えていると、鬱屈するから、チガウこと考えよう。
いわゆる「大人」の好きなこと、そりゃ「説教」ですよ。どの綾子さんだか、説教書いて貨幣と交換してらっしゃるようなもので、いっつも論法は似たようなもの。曰く「貧しい国なんだったら、石油を掘ればいいではナイか」。まったく正しい。そのとおりだ。異議異論、入る余地ナシ。もちろん、彼女はそんな暴論を述べていらっしゃるワケではナイ。のだが、いつも、そんなふうに聞こえる(読める)のはなんでなんだろう。
100田さんがいう。「私は誤解されていると思ってるバカが多い」「ほんとうの私はそんなではナイと思ってるバカ」。ほんとうの自分とは、周囲からみられている、まわりみんながそう思っている自分なのだ、と。そうでナイ自分だと思うなら「こうである」「こうなりたい」という自分を死ぬまで演じるべきだ。そのとおりです。しかし、この説教を拡張すると「おまえはキチガイだ」「お前の頭はオカシイ」と自分が思われたら、ほんとうの自分は、頭のオカシイ、気が変なヒトとして、しかるべき収容所に入らねばならない。さらに拡張すれば、「安全保障法案に反対しているとは、非国民、売国奴ではないか」とまわりからいわれるようになったら、そうなんだから、これまた、しかるべき所に送り込まれても仕方がナイ。
あれ、イカンな。チガウこと考え始めたのに、余計、鬱屈してきた。もとにもどそう。ええと、そうそう、市役所から「臨時福祉給付金」の申請書というのが送られてきた。そういや、今年は市県民税払ってナイな。いつもだと「支払いなさい」って紙が送られてくんだけど。封書を開けてみると、去年の所得が155万円以下だったから、非課税で、逆に6000円、申請すれば、一回だけ貰えるとある。6000円はまあ、どうでイイけど、市県民税を払わない所得水準者になったのは、物書き仕事やり始めてから、初めてだ。で、それはありがたいこってす。日本はいい国だなあ。マイナンバー制度が始まったら、〇○番さん、非課税ッ、ケッテーとかいわれんのかな。
銭になってナイ戯曲、いっぱいあんだけど、そういうの書くしか能がないから、そういうの書いて、上演して、損金赤字になって、仕事ナイねえ。困ったナア。不況ですよ。オレなんか、この半年、書き仕事は二件。こういうことを考えていると、鬱屈するから、チガウこと考えよう。と、んっ、んっ、んっ。

2015年9月 4日 (金)

悲しき劇作家③

『ジギルとハイド』(スティーヴンソン)は人格が善悪の二つ。ダニエル・キイスの小説では『24人のビリー・ミリガン』で、24人。(もっともこれは、だいぶんに胡散臭いらしいが)。乖離性同一障害とかいわれてますが、いまだに、その存在は医学の謎。これについては、私も小論を戯曲『夕月』の中に書き込んだ。
ところで、そういう物騒、やっかいなのはともかく、三人程度なら「あるよなあ」という自覚、あるよなあ。私も三人と、それを抑制(control)するのを含めて四人。ただ障害でナイところは、「ああ、いまこの人格だなあ」というのが了解出来て、関係出来るからだが、故人になっちゃった、私の大好きな俳優、原田芳雄さんなんかは、自宅から仕事に出ていくとき、家族のものに「じゃあ、ちょっと芸能界に行って来る」というのが挨拶だった。これまた故人で私の大好きな高倉健さんは、板東英二さんなんかに訊くと、軽いノリでよく喋るひと。しかしながら、健さん自身、「私は花田秀次郎みたいな男のように生きたいと思ってます」という手記を遺している。これは大まじめな話。(余談。この手記では、当時のマスコミに対して、~自分は旅行が好きで、ひとり旅をするんですが、その度に、失踪まがいのことを書かれて、どうして旅行がいけないんだと憤りを感じる~てなことも書いているし、自分もふつうに性欲があるけど、プロの方のところで万札切って遊ぶという柄じゃナイ。そういうことをしないと、今度はゲイとか書かれる~というふうに憤懣)
閑話休題。とかく「こうでありたい自分」というのは誰にでもあって、「他人から観られて判断されている自分」もあり、さらに「こうであろう自分」もある。そのどれが「ほんとうの私なのでしょうか」と、三島由紀夫さんが、なんだっけ、小説のplotにそういう問答を高僧とやりとりするのを書いてたな。そこで高僧いうのには「おまえに、その答えはもう出ておる」で、まあ、ナンやねんやけど、私なんかも原田さんみたいに「んじゃあ、北村 想をやりにいってきまっさ」と家を出ることしばしばだ。「北村 想」は私の仕事だからな。これは寺山修司さんが「私の仕事は寺山修司です」とインタビューに答えているのとほぼ同じ。「こうでありたい自分」というのは、修行の道程、くさいコトバでいえば「男をみがく」って、アレね。オレ、それ、やって来たよ。師匠はクラモチくんだけども、オレは彼の真似して生きて来た。弟子が師匠の真似すんのはアタリマエ。で、だいぶんに、板についてきたナとは思ってんだけど。
劇作は、どうしても自分の分身の術だから、自分のさまざまなsectorをさまざまに分配して成り立つ文学で、書いてて楽しいってのはそのせいかも知れませんナ。とはいえ、楽しい仕事と銭になる仕事の両立ってのは難しい。コツってのはあるのよ。門外不出をまた出してしまうと、「自分も観客のひとりとなって」書く。オレだって大衆だからナ。「大衆のために書く」というのは、大衆のシンパシーに同調するってことではナイ。自らが大衆となって書くのだ。こんな作品、舞台、観たいなあと芝(その当時は客席なんかなかったから芝生の上に座った)に居る。「芝居」とは観客視線から観た演劇の呼称だ。ほんとうにやりたい演劇なんか、銭になんないよ。avecビーズには、好きなように書いているから銭にはならない。だから赤字はてめえで埋めている。名古屋の極々一部の劇作家を除くと、みなこの類だから、いつまでたっても腕が上がらない、上達しない。自称劇作家の諸君、一度くらい銭のとれる戯曲を書いてごらんヨ。

2015年9月 2日 (水)

悲しき劇作家②

まるで自分が自分を軟禁でもしているかのように、one-room のマンションに閉じこもって仕事から生活から、なんやらかんやらやっていると、ふと、自身の精神の危機を自覚する(それに気付く)ことがある。ちょいと贅沢して、one-room といえど12帖、systemkitchen、バス、トイレ別のところにいて、(も一つオマケはclosetが広い)バブル期の建築物だろう。鉄筋ではなくて、鉄骨だ。かなりしっかりした結構というべきだろう。ドアもベニヤのようなやわではなくて、マホガニーだ。これで、共益費、保証人代行費コミで¥53000/月、最寄りの地下鉄まで歩いて10分、名古屋駅前行きのバス停まで2分。地勢学的には、なんて大袈裟にいわずに住環境としてはあまり文句のつけどころはナイ。ただし、都会の一人住まいだ。隣人を愛そうにも、隣人が何者なのか、表札すら出ていないのでワカラナイ。(ちなみに、オレんところだけです、表札出してんのは。宅配さんや郵便屋さんが困らないように、北村想の名義でも出してるから)。かつてフォーク・シンガー泉谷しげるさんが歌った。η多くのことを知るよりも、隣のことが知りたい~。まったくそのとおり。で、全景が見渡せるところにて、バルコニーの洗濯物を観察しながら、住人のことを憶測している。
で、と。そんなところにいても、時折、精神的鬱屈感覚に襲われる。治療は簡単だ。外に出ればイイ。とはいえ、蔵書80万冊を誇る「ら」書店なんぞに行くと、本の圧力というのに気押されて、息苦しくなるだけなので、近所の大型コンビニ(小さなスーパー)、要するにピアゴとサークルKの合体タイプ小売り店、の、オープンカフェふう休憩所に出向く。最近までは蚊でタイヘンだったが、少し涼しくなってからは、広い芝生があるので、赤蜻蛉の群れが観られるようになった。ここで、いま流行りの炒れたて120円コーヒーを飲みつつ風に拭かれて座っていると、「風ってのは、〈時間〉が実体化したもんかねえ」などと、のんびり考えることも出来る。
12帖とはいえ、本棚を置くと狭くなるので、蔵書は実家に全部置いてきた。CDは持ってきたけど。書いているものの必要に応じて取り替えるという寸法。なのに、本てのは増えるんだなあ。どうしても「ウィキペディア」では間に合わない資料も必要になってくるし、コミックスは年に一回蔵ざらえするけど、いやあ、溜まる。これが貯まるならいいんだけど。ちなみに、門外不出の一つを披瀝すると、塾生には、「ウィキペディア」は、せめて作品が銭になるようになってから使えとmission する。「ウィキペディア」に罪はナイ。しかし、ビギナー、或いは自称劇作家は、事典や辞書を使ったほうがイイ。「ウィキペディア」を使うならリンク(むかしふうにいえば、ネットサーフィン)すべし。事典や辞書には、調べるモノ以外に、横っちょにいろいろと情報がある。「ほーっ、こんな言葉があるのか」「へーえ、こんなモノがいるのか」と、そこで、ちょっとだけ利口になれる。こういう些細な努力を怠ると、些細なマチガイを犯すことになる。「けんけんがくがく」といってしまったり、「とんでもございません」といってしまったり。前者は「喧々囂々」で「侃々諤々」と混じってる。ただの騒がしい状況と、議論沸騰の状況とではかなりチガウ。後者は「とんでもない」で一語の形容詞だから、二つに割ることは出来ない。
こんなことに神経質になって、六十三年、未だに現役で、筆一本(塾を除けば)でやってる劇作家は、別役実センセイと、オレくらいだろう。別役センセイは、いま体調を崩してらっしゃるので、ああ、オレもそのうち加齢とともに書けなくなるんだろうなあ、と、また鬱屈が始まる。かくして時間と空間は〈鬱屈〉だけを運んでくるのだ。

2015年9月 1日 (火)

悲しき劇作家①

食えば血となり肉となる。そういう食い物はたいてい貨幣としか交換出来ぬ。貨幣は労働と交換することによってしか(これもたいていは)得られない。ところで、「肉となる」のは身体的にワカル。腹が減って、食って、満腹。栄養になったろう。体重も増加したろう。筋肉が増えた、けど脂肪も増えた。疲れがとれた。みな身体的なものだ。だから、再度働ける。すなわち食う(消費する)ことによって、私たちは私たちを「生産」していることになる。
ところで「血となる」の「血」だが、脳はどれだけ血液を使うのか。これは脳内の酸素量から計って、普通全血液の20%。全身の1/5の「血」は脳によって使われて(消費されて)いる。ということは、より脳を使う作業に従事しているものは、より多くの「血」を脳で消費していることになる。脳とてカラダの中に在る臓器と思えば、脳に筋肉や脂肪はつかないが(チガウ悪玉がついて脳梗塞になることはありますがネ)、疲労はする。デスクワークといえどピンキリで、数字の操作だけやってりゃイイもの(たとえば公共ホールの小役人の仕事はそれだけど)から、無から有を創り出す「創作」の仕事とではだいぶんに、チガウ。デスクワークでなくとも、考えながら作業しなければならない肉体労働もまた、脳の血液を多く消費する。予算内で如何にしてその芝居に適した舞台を造るか。これには頭を使う、といって頭で釘を打つワケではナイので「脳」を使う。もっと具体的にいえば「考える」。いちがいに、机に座っての労働者が精神(思考)労働をしていて、現場仕事の労働者が肉体(機械的)労働をしているという見かけだけの認識と判断は、大きな錯誤になる。貨幣取得は労働との交換が主だが(財産で食ってるとか、亡者の掠りをとっている、上前をハネている、上納金を納めさせている、布施、寄付とやらを懐に入れている、といった族は別)労働の何と交換されているのかというと、労働者の費やした時間と能力と経費を以て創り出された生産物の交換価値、との交換、と、面倒臭くいえばそうなる。ただし、昨今はパラレルに労働が出来るようになったことや、便利な道具(パソコンだってスマホだって道具だ)の発展から、労働時間の多寡はあまり問題にされない。
ところで、こと「表現」という創作活動においては、たとえば偉いセンセイが墨で、エイッとばかりに書かれた一文字(数秒)が数百万の貨幣と交換されることもあれば、小説家や劇作家が、何カ月もかけて書いた作品がボツになって(つまり交換不可)しまうことも多々ある。(やっと劇作家というコトバが出てきたぞ)
私は伊丹で劇作家養成の塾を持っているが、ここでは実利(劇作家の経済)から劇の思想まで、さまざまなレクチャーとワークがなされる。また、それは本道ではナイにせよ、数多の劇作家の罵倒もなされる。もちろん感情論ではなく、どこがどうアカンのか、論理的になされるから始末が悪い。ので、門外不出になっている。
そういうことも多少は踏まえながら(多少です。多くはこれも門外不出やからな)、劇作家の仕事が如何に「悲しい」「不幸な」労働であるかを、いつものようにハッタリと虚構を交えながら(交えるだけて嘘はナイ)、「勝ったもん勝ち」「売れたもん勝ち」の、このアベノミクスとかいうお好み焼きの世相の中に、一席(一石に非ず)を設えて(だから投じるに非ず)みようと魂胆した。こういう魂胆をアン魂胆という。アンインストールのアンだ。ともかくデトックスのように棄ててしまいたい思いの魂胆だ。

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