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2015年8月 9日 (日)

And in the End・捕捉

釈迦の思想にもどる前に、少しだけ捕捉しておく。「シュレーディンガーの猫」については、量子力学の「観測論」に対するシュレーディンガーの揶揄だったことは理解出来たと思う。つまり、endless。しかし、これは波動力学の限界であって、量子力学の限界を意味しない。量子力学の「観測理論」においては〈密度行列〉がさらに必要になる。
さて、ただし、だ。要するに「観測」において「確率的」に量子の動きは完全に記述出来るのだが、それはしかし、測定された量子においての話だ。そこで、測定されない量子は、どんなふうに動いているのだろうか。何ら測定していない、検出器にはひっかからない量子(簡単にいっちゃうと、誰も観ていないときの量子)だが、それを「観測」すれば、「シュレーディンガーの猫」の矛盾に陥る。ここでは、あくまで、観測者(人間)も観測装置も、観測実験もナイ場合の量子の動きを「もし、それがみえたら」ということで述べると、そんなとき量子は「あれでもナイ、これでもナイ」というまったく〈デタラメ〉に動いている。〈デタラメ〉といういい方が不満なら「偶然」と称してもイイ。あるいは「量子力学」の測定というのは、あくまで、量子を「観測」によって捉えたところの「確率」であって、「観測」によって捉えない量子の状態を量子力学は、どんな状態も「共存」すると記述する。この「共存」という概念(category)をもう少しいうと、最近やたらめったらもちいられる「共有」とは全く異なる。たとえばある量子が「イマ、ココ」にあって、「ツギ、ドコ」に動くかは、東南西北の方向に全て存在するということだ。よってつまり、「偶然」。これは、測定と測定のあいだの量子の動きは、捉えられないから、〈デタラメ〉「偶然」としかいいようがナイといっているのではナイ。「〈デタラメ〉、偶然でしかナイと記述することが完全(正しい)な記述であって、何か、人間の知らない神秘的な、あるいは決定論的なメカニズムは自然には存在しない」という主張なのだ。ニュートン力学に慣れ親しんでいる私たちにとっては、とてもイメージすることは困難に思われる。
そうすると、次なる疑問が当然、提出される。
「では、ニュートン力学と量子力学の〈つながり〉〈境目〉、どの辺りでどのように、量子力学はニュートン力学と融合、あるいは相転移するのか」
この問題については、ミクロとマクロの単位でそれを分別しても該らない。私の考えでは、ニュートン力学が、量子力学に進入することは全くナイとしてもイイが、量子力学の、その概念的な自然観は日常的にも活用可能だと思われる。視点を変えていうと、私たちは量子力学の動き(ふるまい・状態)を、「確率」「偶然・デタラメ」と称しているが、それらは、あくまで、私たちの脳裏がイメージした位相からすると、そう称するしかナイからそうしているだけで、量子力学的自然のほうが自然本来の在り方だとすれば、「確率」も「偶然・デタラメ」も、ナイのだ。これは、よく誤解されている光速度と似ている。私たちは光の速度は秒速30万㎞と教わったし、たしかに、観測するとそうなる。観測すると、ということは、観測者がいて、stop watch で計測すればという相対的な速度だが、実際には光の速度には時間はナイ。絶対的には光速度というのは、ナイということだ。どういうことかというと、1㎞進もうと10億㎞進もうと、光がその距離を移動するのに要する時間は0秒だということだ。

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