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2015年8月

2015年8月31日 (月)

And in the End⑲

And in the End⑲
「釈迦は悟った」ということになっている。悟らねば仏陀とは呼ばれなかったろう。しかし、釈迦が悟ったかどうかについての客観的な判断は誰にも出来ない。身も蓋もなくいってしまえば、釈迦は悟ったと思い込んだだけかも知れない。「悟り」というものが〈真理〉ならば、それが真理だという〈基準〉というものが、必要になってくる。さらに、「悟り」というモノは「先験的」に存在するものでなくてはならない。でなければ、悟りの数は、そう思った固有の数だけ存在することになる。
この程度のことに釈迦が気付かなかったとは思えない。「自燈明、法燈明」という釈迦の遺したコトバは、そこに重点が置かれている。従って、小乗(上座)仏教の「結集」以降の仏教は、まったく無視してなんら釈迦の思想を損なうものではナイ。この「自燈明、法燈明」という命題は、「唯我論」に陥らぬように発せられた巧みなコトバだ。ベクトルが逆なので「法」に囚われることも防いでいる。安直にいってしまえば、「矛盾」している。これは欠陥ではナイ。ここに「妙」が在るのだ。「妙」とは〈いうにいわれぬほどすぐれていること。きわめてよいこと。また、そのさま〉。あるいは〈不思議なこと。奇妙なこと。また、そのさま〉を意味する。
私たちは、この妙あるパラドクスに従って、「釈迦は悟った」ではなく、「釈迦は私たちに悟りへの道程(導程)を開いた」と心得ておいたほうがイイように思う。
釈迦にインスパイアした「悟りへの道程」は、私たちが現在の仏教学から教えられるものとはまるでチガウ。十二因縁も、八正道も、小乗(上座・出家)仏教が、都合よく後付けしたもので、こんなものは、はやいとこ棄ててかかったほうがイイ。ひろさちや老師も、釈迦の「悟り」とは、「この世界が〈縁起〉の構造・・・相互依存関係・・・になっていることを発見した」と述べているが、素人の強みで私が述べるとするならば、それは逆なのだ。つまり、釈迦の「悟り」とは「この世界が〈縁起〉の構造・・・相互依存関係・・・になっている、〈と、人間は思い込んでいる〉という発見」が、私なりの解釈だ。
もし、この世界が〈縁起〉の構造(相互依存関係)であるならば、私たちはそこから脱することが出来ない。それでは、婆羅門のいう輪廻と似たようなものだ。つまり決定論的、必然的法則関係の存在を認めねばならない。私の考えは、ひろさちや老師の命題を次のように少しだけ書き直すだけでイイ。曰く「この世界が〈偶然〉の構造・・・確率的相互依存関係・・・になっていることを発見した」
「人間が思い込んでいるような〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉は存在しない」これが、釈迦の発見、「悟り」であり、では、どうするかという「道程」への導きだ。(注意しておくが〈法〉 とは、仏教において「真理」を意味する。けして「法則的自然観」ではナイ)。
「世界は偶然によって生じる」はエピクロスのコトバだが、釈迦のそれは、さらに微細で深度がある。
もちろん、釈迦が量子力学(どころかニュートン力学も)を知っていたワケではナイことは明白だ。ただ、相互依存関係の弁証法を「あれでもナイ、これでもナイ」として選択したと思われる。この「あれでもナイ」をd/yとし、「これでもナイ」をd/xとする微分係数と関数座標面をかんがえればイイ。〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉は存在しないということは、量子力学的公理でいえば「重ね合わせ」こそがこの世界の実相で、何かを原因として、結果が生じているということではナイということになる。
もちろん、量子力学においても、波動関数のように、偶然や確率によらない決定論的な法則は存在する。それは、このマクロの世界においても直観出来るものだ。しかし、釈迦の発見は、非直観的なものだ。その非直観的自然観(法則的自然観の正反対)こそが、釈迦の思想を形成していく。
如何にして〈因縁〉〈縁起〉〈因果〉を脱する(断ち切る)か。これが釈迦の求めたものであり、私たちを「悟り」に導く思想なのだ。どういうことかというと、「世界のことは何も決定されていない」よって「世界(私)は変わって(変えて)いける」ということになる。ここから三宝印「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」が発想される。三宝印は、存在の在り方の真実を説くのではなく、もっと〈積極的な主張〉なのだ。
「自燈明」とは、自らを以て燈明とせよ、ではなく、自らを照らす燈明を求めてこそ、燈明とせよ、であり、「法燈明」とは、この世界の在り方の真理の明かりを求めてこそ、燈明とせよ、になる。

本論を記すにあたって、「空論」と「無二の法門」が説かれた『唯摩経』はたいへん参考になった。ただし『唯摩経』は在家仏教者の書であるゆえ、小乗(上座)からは仏典(教典)とはみなされず「仏説」というふうに称されている。
「色即是空 空即是色」(般若心経)にあるように、なぜ「無」を用いずに「空」としたのかという理由(筋道)は、「空」の意味そのものの解釈にある。この「空」は老子の説いた「空」とはまったくチガウものだ。私はなんとか辿り着いたが(ヒントは、この文言だけが反転した繰り返しになっていることだ)、一つ読者もお考えになられることを願う。

2015年8月 9日 (日)

And in the End・捕捉

釈迦の思想にもどる前に、少しだけ捕捉しておく。「シュレーディンガーの猫」については、量子力学の「観測論」に対するシュレーディンガーの揶揄だったことは理解出来たと思う。つまり、endless。しかし、これは波動力学の限界であって、量子力学の限界を意味しない。量子力学の「観測理論」においては〈密度行列〉がさらに必要になる。
さて、ただし、だ。要するに「観測」において「確率的」に量子の動きは完全に記述出来るのだが、それはしかし、測定された量子においての話だ。そこで、測定されない量子は、どんなふうに動いているのだろうか。何ら測定していない、検出器にはひっかからない量子(簡単にいっちゃうと、誰も観ていないときの量子)だが、それを「観測」すれば、「シュレーディンガーの猫」の矛盾に陥る。ここでは、あくまで、観測者(人間)も観測装置も、観測実験もナイ場合の量子の動きを「もし、それがみえたら」ということで述べると、そんなとき量子は「あれでもナイ、これでもナイ」というまったく〈デタラメ〉に動いている。〈デタラメ〉といういい方が不満なら「偶然」と称してもイイ。あるいは「量子力学」の測定というのは、あくまで、量子を「観測」によって捉えたところの「確率」であって、「観測」によって捉えない量子の状態を量子力学は、どんな状態も「共存」すると記述する。この「共存」という概念(category)をもう少しいうと、最近やたらめったらもちいられる「共有」とは全く異なる。たとえばある量子が「イマ、ココ」にあって、「ツギ、ドコ」に動くかは、東南西北の方向に全て存在するということだ。よってつまり、「偶然」。これは、測定と測定のあいだの量子の動きは、捉えられないから、〈デタラメ〉「偶然」としかいいようがナイといっているのではナイ。「〈デタラメ〉、偶然でしかナイと記述することが完全(正しい)な記述であって、何か、人間の知らない神秘的な、あるいは決定論的なメカニズムは自然には存在しない」という主張なのだ。ニュートン力学に慣れ親しんでいる私たちにとっては、とてもイメージすることは困難に思われる。
そうすると、次なる疑問が当然、提出される。
「では、ニュートン力学と量子力学の〈つながり〉〈境目〉、どの辺りでどのように、量子力学はニュートン力学と融合、あるいは相転移するのか」
この問題については、ミクロとマクロの単位でそれを分別しても該らない。私の考えでは、ニュートン力学が、量子力学に進入することは全くナイとしてもイイが、量子力学の、その概念的な自然観は日常的にも活用可能だと思われる。視点を変えていうと、私たちは量子力学の動き(ふるまい・状態)を、「確率」「偶然・デタラメ」と称しているが、それらは、あくまで、私たちの脳裏がイメージした位相からすると、そう称するしかナイからそうしているだけで、量子力学的自然のほうが自然本来の在り方だとすれば、「確率」も「偶然・デタラメ」も、ナイのだ。これは、よく誤解されている光速度と似ている。私たちは光の速度は秒速30万㎞と教わったし、たしかに、観測するとそうなる。観測すると、ということは、観測者がいて、stop watch で計測すればという相対的な速度だが、実際には光の速度には時間はナイ。絶対的には光速度というのは、ナイということだ。どういうことかというと、1㎞進もうと10億㎞進もうと、光がその距離を移動するのに要する時間は0秒だということだ。

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