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2015年7月18日 (土)

And in the End⑯

And in the End⑯
さあ、ここまで、よくワカランかっただろうと思う。少しはワカッタが途中でワカランというひともいたろう。しかし、これを全てワカルように懇切丁寧に書いていくと一冊の書籍になってしまう。
もう少しワカリヤスク書きたいのだが、残念なことに私はこのブログ欄に図を描く方法を知らんのだ。そのリテラシー(読み書きの技術)さへ駆使出来れば、百聞(書き)は一見というワケで、ああ、そういうことかとすぐに理解してもらえるのだが、まことに残念。
とはいえ、出来るだけのことはやってみる。まず、「量子力学においては古典力学のような〈法則的自然観〉というものはナイ。観測されていない自然というものは、客観的には運動していない」というのは、どういうことかというと、読んだ通りのことで、量子の運動(動き)には何の法則性もナイということだ。けれども「法則性がナイという法則はアル」のだ。ある客観性というものだが、それが、「これを観測すると、一つの結果を観ることは出来る。しかしそれは、あくまで、自然の中の〈一つ〉にすぎない」ということになる。この一つの結果を観る客観性は、ハイゼンベルクの提唱した不確定性関係としてよく知られている。この不確定性関係は数多の物理学の新書や哲学関連書、入門書、ガイドブックなどで〈不確定性原理〉と書かれていることが多い。しかし、これは原理ではなく、あくまで量子力学の幾つかの原理から導かれた結論といっていい。まともな量子力学の書籍においては「関係」と称されている。(未だに〈原理〉と書かれているなら、そのての本は棄てなさい。たいてい他の事項もアヤシイから)。いまその「不確定性関係」について詳細を書く時間も紙数もナイので(それで一冊の本になる)、ここでは省く。興味のある方は、そのての一冊本なら書店の何処かに並んでいるはずだから、捜してお読みになればイイ。
次に「これは、観測者の関与や観測機器に因るものではナイ。それらは一切、観測には入り込まない」というのは、たとえば、これも素粒子物理の新書の中でさへ、「観測者が顕微鏡をのぞくとその眼から出た波動(光)で、対象が影響を受ける」てなことが書いてあったりする。こんなのをいったいどれだけ読まされたか。読むたんびに、納得のいかない思いだけが残った。たしかに極々微細には、対象に眼からの波動はぶつかるのだが、語弊をおそれずにたとえをいえば、それは、私たちが月をみたら、どれだけ月の動きに影響があるかといっているのと同じ程度で、たしかに月もまた量子の塊なのだから、その動きに影響はナイとはいえない。が、六十億の地球人が一斉に月を観ても、月が微動だにスルことはナイ。
そもそも、イチバン重要なのは、そういうところで、量子の観測においては観測者が入り込む(関与する)ことはナイ、ということのほうなのだ。これが、「シュレーディンガーの猫」における、シュレーディンガーの皮肉をこえていくにはタイセツなのだ。
そこで、まず私たちはここまで転戦する。「古典力学では、運動量は一つだが、量子力学では、それは三つになる。○物理量(位置、速さ、方向)自体、○その測定値、○数学的表現(作用素)」だ。では何故、三つにもなるのかというと、量子というものが「波動」でもあり「粒子」でもあるという(もちろん、「波動」でもなく「粒子」でもナイという逆のいい方も可能なのだが)、これまたどうしてもイメージ不可能なモノだということを理解することから始めなければならない。適当な「オッカムの剃刀」でもあればイイのだが、ここにはそういう便利なものはナイ。だから、何故「波」であって「粒」なのかという、これこそ量子の〈原理〉を了解する作業から始める。これが理解出来れば、「重ね合わせ」ということがどういうことなのか、ワカッテくる。そうすると「猫」が生きているのと死んでいるのとの「重ね合わせ」だといわれてしまうのかという理由もワカル。
これには有名な「ダブル・スリットの実験」を解説していくのが最も適切だ。図が描けないので、苦肉の策でこんなふうに記す。
□→・・これは電子銃だ。ここから矢印の方向に電子を飛ばすことが出来る。
| ○A  ○B |・・これは実験用スリットでAとBに○こういう穴があいている。二つ穴があるのでダブル・スリットという。                    |/////////|・・これがフィルム(検出装置としてもイイ)。いまその素材の量子については便宜上、問題にしない。
これを並べる。              
□→~~~~~| ○A  ○B |~~~|/////////|
電子銃から発射された電子は~~と進んでスリットの○を通り~~と進んでフィルムに到達する。フィルムが感光する。といった具合だ。
たとえば、電子を一個発射して、それがフィルムに到達、感光がみられたとする。
□→~~~~~| ○A  ○B |~~~|///////・//|(図P)
と、こんなふうになる。ここで私たちは電子の粒子が○Aか○Bかを通ったというイメージしか持てない。たとえば電子をパチンコ玉に見立て直せば、その通りだ。けれども、それは古典力学(ニュートン力学)のカテゴリーならば、そうだということだ。ほんらい、この実験では、電子を次々に発射すると、フィルムの感光に縦縞の干渉縞が現れることから、量子(電子)の波動性をいうことに用いられるのだが(つまり電子は○A○Bの両方を同時に通っている)、
あえて、この(~~~~)の部分について言及してみよう。つまり、電子がスリットに到達、通過、フィルムに到達する、その過程において、量子はどんなふうになっているのか、ということだ。そのときは「粒」なのか「波」なのか。
(図P)においては、フィルムに到達しているその状態は「粒」だが、たとえ1時間の間隔をおいて、電子を発射しても、1秒間に数万個の電子を発射しても、フィルムには縦縞の干渉縞が現れることから、一個ずつだろうが、数万個一挙にだろうが、量子(電子)は一個の場合でも数万個の場合でも、時間の間隔にも関係なく、「波」であり「粒」として移動しているといわざるを得ない。では(~~~~~)の部分では、どこまでが波状で、どこが粒状なのだろうか。この状態を量子は、物理量(位置、速さ、方向)自体、と、数学的表現(作用素)として、運動しているのだが、(~~~~~)の部分においては、粒でもなく波でもなく、量子力学的状態として移動しているとしかいえない。ここが古典力学との大きなチガイだ。物理量自体としては、不確定性関係によって、位置と速さ、方向は同時に求められない。しかし、数学的表現としてなら、シュレーディンガー方程式によって、複素数平面の関数として求めることは出来る。これを波動関数というのだが、複素数ゆえに、二元数(実数と虚数の二つの単位を持つので)だ。(古典力学や日常世界は一元数)。複素数だということは虚数を含むので、観測機器には引っかからない。計器の目盛りに現れるということはナイ。
シュレーディンガーは、量子を「波」と考えて波動力学という量子力学を提唱した。これは一つの量子の在り方だ。「波」ということならば、量子は「重ね合わせる」ことが出来るということだ。(これを「重ね合わせの原理」というのだが、つまり「猫」が「生死の重ね合った状態にある」というのは、この辺りからきている)。
数学的には、こういうことが出来るのは、ベクトルだ。よって、波動関数の状態から、さらに波動関数を求めていくことを「状態ベクトル」と称して、これを波動力学における作用素と称する。
要するに、「シュレーディンガーの猫」において、「猫」は「生死の重なり合い」に在るということはワカルが、生死のほどは、蓋を開けないとワカラナイというのは、まさにこのことだ。では、「シュレーディンガーの猫」は、いったい何を観測(実験)しているのだろうか。        

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