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2015年7月24日 (金)

And in the End⑰

「シュレーディンガーの猫」は、いったい何を観測(実験)しているのだろうか。ここで、ちょっとタイセツ(重要)な手続きをふんでおかねばならない。それをふまないと、ウンコを踏んでしまったり、糞で置かねばならなくなったりするからだ。それは、「測定」と「観測」というコトバの定義、その差異についての正しい認識だ。んで、定義しておく。「測定とは、ある装置を使って実験し、最終的にある計器の目盛りを読み取り、その数値から、ある対象のもつある性質について知る。つまり、得られた数値から、対象の始めの状態についての情報が得られるような過程」をいう。「観測とは〈厳密〉には、装置が与えた測定値を観測者が観る過程までを含む」ものをいう。これは、町田茂さんの定義なのだが、ナンダヨ一緒じゃないか、前者はうまく観測者を消しているだけじゃないか、と、半畳入れたくなる。本人は微妙なものだとことわってらっしゃるが、もちっと簡単に分別することは出来る。私のような門外漢にもワカルように私が私にいうならば、たとえば「顕微鏡を観測者が視ている。覗いている」これはどうしたって「観測」に該る。実験されたデータが次々と送られてくる。いまなら3Gなんかのデータ通信で。それを科学者が読み取る。そこから得られる数値は測定値だから、これは「測定」になる。この場合、観測者は実験(測定)に全く関与していない。
ここまでなら、量子力学も問題なくやっていけた。ところが、後者についても疑義が発生した。「測定装置」をどう考えるか、だ。これは、私が演劇論をあーだこーだと考えてた際に、さまざまな「学」から何か演劇に使えるものはないかと、量子力学に手を出したときに、のっけから疑問だったものだ。(私は量子力学が勉強したかったワケではナイ。数学や哲学や、物理学や、およそ演劇とは縁遠いものから、演劇に応用出来るものが何かナイかと、類推〈Analogy・アナロジー〉したり、引用したりと、よくいわれるところの思考のanarchismとやらをやっていたとき、いってみるならそれぞれの概念をカスタマイズ〈customize・必要に応じて自分流に変換していく〉していたときの道程の中に量子力学という便利なものがあったというワケだ)。
で、のっけの疑問というのは、前述したと思うが、電子がスリットを通ってフィルムに到達して痕跡を残すとき、フィルムもまた量子のかたまりだから、それは、ほんとうに電子の痕跡といえるのか、反応ではないのかという、そういうものだ。
ここで、先にカタをつけておくべきだからそうするが、電子を一個発射して、フィルムに一つの点(電子の痕跡)が出来る場合も、電子という量子の「重ね合い」は生じている。何故なら、その量子は、○Aと○Bを同じに(つまり波動として)通過してきたからだ。一個の電子は○Aと○Bを通過した波の干渉なのだ。
もとえ、「測定装置」もまた量子のかたまりだ。では、何処で量子は最終的に観測出来るのだろうか。この問いを投げかけたのは、時の大数学者フォン・ノイマンで、数理経済学者なんかは、ノイマンの「ゲーム理論」なんかを、まさに「どや顔」で解説するのだが、そのわりには、現在の世界的不況がどうにかなっているとは思えない。(遠山啓老師が生きてらっしゃった頃、数理経済学については、「ちょっと勇み足なんじゃないの」みたいな発言をされている)。
「シュレーディンガーの猫」の場合、「猫」は観測(測定)の対象のように述べられている。では「猫」の何を測定しようとしているのだろうか。もちろん、蓋を開けたときに、生きているか死んでいるかということをだ。が、観測過程というのは、ミクロの対象と測定装置との相互作用の過程をいう。量子力学においては「波束の収束」が起こったときを測定の結果とする。「波束の収束」というのは、波形でいうならば、最も強い波形が現れた部分。ダブル・スリットの干渉縞でいうならば、最も密度の濃い部分をいう。つまり、「重ね合わせ」が最も多い部分だ。量子力学の場合、先述したようにたとえ一個の量子でも「重ね合わせ」だ。従って、「重ね合わせ」はあちこちに起こる。いわゆる「波束」というものだ。量子力学が〈確率〉を扱うのは、その「波束」が、もっとも収束する部分を測定するからで、これは確率でしかナイ。コトバをかえれば測定装置との相互作用によって、「波束の収束」がイチバン高く生じたところ、そこを測定最終地点とする。
ところが「猫」はどうだ。蓋を開けるまで結果は50%の確率しか持たない。これでは、観測の意味がナイ。そこでシュレーディンガーは、量子力学はこんなもんだよと、さっさと足を洗って、分子生物学の方向に進んだのだ。
フォン・ノイマンのいいぶんを聞こう。
「測定しようとするミクロの対象があるとします。もちろん、これは波動関数で表されるものです。干渉を起こし得るでしょう。それを何かの装置、たとえばフィルムを使って検出するとします。ミクロの対象もフィルムも相互作用しますから、衝突によって起こった事象の変化は、これも一つの波動関数に過ぎません。ここでも干渉が観測されます。さて、私たちはそれらを肉眼で観ることが出来ます。フィルムからの視覚刺激は網膜に入ります。すると網膜も同様に干渉を生じ、波動関数で現されることになります。そうなると、さらに視神経、脳、とどこまでいっても干渉は起こり、波動関数で現されることになります。
これはキリがありません。量子力学においては、すべてが重なった状態ですから、どこかで、非因果的過程に転移して波束の収束が起こらねばなりません。とすると、それは〈意識〉もしくは、〈抽象自我〉ということになります」
ついに観念論に到達したワケだ。
実は、シュレーディンガーは、このノイマンのいいぶんを得て『量子力学の現況』という論文を書き、そこに「猫」を登場させて、ノイマンへの批判とした。ノイマンの理論からすれば、猫も観測装置と同じになる。波動関数の中にある。よって「生きている状態」と「死んでいる状態」の重ね合わせ(干渉)が生ずるというものだ。
同じことを別のバージョンでいうならば、この実験を一つの実験室で私がやって、蓋を開けて「猫」の「生死」を確認したとき、死んでいたらそのサインを出すとする。手を挙げるだけでイイ。そのアトにあんたはんが、そこに行く。すると、あんたはんからしてみると私も観測装置の一部となるので、あんたはんが自分で実験室を覗いてみるまでは、私は手を挙げた状態と挙げない「重ね合わせの状態」になる。これではキリがナイ。「シュレーディンガーの猫」をかのように解説している量子力学の本も、私は読んだことがある。この本は状況は述べているが、本質はまったくthroughしていて、けっきょく、無駄骨だった。
しかしながら、ノイマンのいいぶんでいくと、これはもう「唯我論」の世界に突入なのだ。
だから、要するにシュレーディンガーは、「猫」という対象もまた装置に変ずるので、キリがナイぞという揶揄を、この実験で述べたのだ。先述したように、足を洗いたくもなるというものだ。
では、「波束の収束」は測定出来ないのだろうか。そうではナイのだ。そこには、測定装置がマクロで、対象がミクロだという、事象と相互作用との関係と、量子の持つ「時間」とが加わってきて、「密度行列」という波動関数では現せない量子の動きがあるのだ。しかし、この辺りは、本論とかなりかけ離れたから端折ってもイイんだけどね。ついでだからなあ。

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