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2015年7月10日 (金)

And in the End⑮

訃報ありて寂寞の夜に独り在りこれを孤独といわば腑に落つ

まず、量子力学に対する誤謬、錯誤がなぜ専門の物理学者においても起こりうるのか。つまりや、その御方たちの書かれた書籍を私は何冊も読んでんねん。ほんで、やっぱりオカシイと疑問符を持ち続けてきた。だから、著名な社会学者やミステリ作家が、それを応用、引用したマチガイは無理もない、としかいいようがナイねん。
ともかく、一つずついく。
☆古典力学(ニュートン力学)はマクロのものを扱うので、マクロのものとマクロのものを比較する場合、認識の仕方は同じだ。
☆そうしてそこ(の自然)には〈法則的自然観〉というもの、いいかえれば「秩序」というものがある。
☆理論は、その外部に対象を持っている。
☆すべての理論は作業仮説をその内に持っている。
ところが、
☆量子力学においては〈法則的自然観〉というものはナイ。どういうことかというと、観測されていない自然というものは、客観的には運動していない。けれども、これを観測すると、一つの結果を観ることは出来る。しかしそれは、あくまで、自然の中の〈一つ〉にすぎない。(これは、観測者の関与や観測機器に因るものではナイ。それらは一切、観測には入り込まない。・・・これが、ちと重要なとこなんや。ここでたいてい間違えるからなあ)
☆もう一つ、錯誤につながるものの代表として、「私たちは古典力学をイメージすることは出来るが、量子力学をイメージすることは出来ない」のに、ついつい、量子力学をイメージしてしまうところだ。たとえば、量子(電子としておくが)が、スリットを通過した、というイメージを私たちは、どうしても古典力学的にイメージしてしまう。しかしそれはマチガイなんや。電子は「量子力学的にスリットを通過している」のだ。それを「時間」で捉えると、マクロの時間はT=h→0でも量子力学の時間はT=∞になる。つまり古典力学でいう「瞬間」は、量子力学においては「無限大」の中の一つでしかナイということだ。瞬間的に電子がスリットを通過した、というのはあくまで古典力学のイメージにすぎない。これは、古典力学における「時間」と量子力学における「時間」とは、別々に現実に存在する、ということだ。
☆古典力学において理論的対象を数学の方程式で現すと、一つの「解」が求められる。これは測定対象の予想(現象)と1対1対応する。しかし、量子力学においては、1対1対応しないのだ。量子力学においては、その法則として「決定論的なもの」・・・これは偶然も確率もナイ(波動関数はここに入る)ものと、「確率的、偶然的対応」・・・これ非直感的というのだが、この二つがある。
☆古典力学では、運動量は一つだが、量子力学では、それは三つになる。
○物理量(位置、速さ、方向)自体、○その測定値、○数学的表現(作用素)・・・作用素とは、波動関数(状態ベクトルという)を他の波動関数に変える作用をいう。で、状態ベクトルいうのは何や、というと、「波と波の重ね合わせ」のことを、そう称するんや。つまりや、量子というのは「重ね合わせ」の状態だと、おおまかにいうとそういうこっちゃ。
☆もし、どうしてもイメージしたかったら、ある量子がダブルスリットを通過するとき、それは(シュレーディンガー方程式における複素数平面の)雲だとイメージしてもイイ。これがスリットのA、Bを通過して(ほんまは波動、波なんやけど)、フィルムに到達するときは粒子として到達すると、そう考えればイイ。
☆そうすると、量子というのは、一個それ自体で干渉していることになる(重ね合わせになっているということや)。
これだけ、量子力学と古典力学とでは、根本的な差異があるのだが、私たちは何故、この両方の世界を生きているのだろうか。というより、量子力学と古典力学の関係はどうなっているのか。これについては、
☆古典力学は、量子力学が相転移したものだ。と、考えておけばイイ。
まんず、面倒なことは省略して、ここまで解説したが、「シュレーディンガーの猫」をとっ捕まえるには、もう一つ、難問がある。これぞ、私もまた、さまざまなそのての書籍を読んで、合点のいかなかったことなんやけど、たとえば、「電子の観測をするのに、いま一個の電子をフィルムに飛ばして、フィルムに電子の痕跡が出来た」という文言は、どうしても納得出来ないでいた。そやかて、フィルムもまた量子の集まりやないか。ほな、それは電子の痕跡ではなく、電子とフィルムの反応(相互作用)とチガウんか。フィルムは決して測定装置には入らない。というものだった。これは、どの書籍に該っても明確な解説も説明もナイ。マクロなものもミクロの集合だとするなら、何を「測定装置」と呼べばいいのか。いったい、量子の測定など出来るのか。
これについては、私の「疑義・疑問」は正しかったらしく、最近になって、「観測理論」と、この分野は称されて、物理学者のあいだでも喧々囂々、侃々諤々、議論されていることがワカッタ。
んで、やっと、まともな「観測理論」に巡り逢った。町田茂さんのものだが、このひとは唯物弁証法をキチンと学ばれていることが、著作を読むうちに理解出来た。
さて、昼飯の拵えしようっと。「猫」をとっ捕まえるのは、もうちょっとやで。もらろん、そこから釈迦の思想にもどるのも、アトちょっとや。

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