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2015年7月

2015年7月25日 (土)

And in the End⑱

(ほんらいなら「混合状態・純粋状態」などの「波の重ね合わせの状態」についての説明もあるのだが、ここでは特に必要ではなく、かえって錯綜するだけなので、端折る)。端的にいってしまえば、ノイマンが、対象と観測装置の干渉によって波動関数が限りなく続くといったのには、かなり大雑把なところがある。すごく簡単なことなのだが、「観測者が実験室で扱う装置が、全体として量子力学的状態にあるとは、とても考えられない」と、まあ、これだけのことだ。私たちの視線で観た月のことを思い出せばイイ。私たちの視線と「月」が干渉しあって、波動関数の波になるということは実際に、あり得ない。
とはいえ、検出装置(フィルムなど)については、厳密な検討は必要だ。たとえば、フィルムについては、一枚のフィルムを細かく分割し、分割された部分が直径が数ミクロン、その中に含まれる原子の数は10の18乗程度が標準とされている。
この検出装置に電子が一個、痕跡を残したとする。タイセツなのは、この電子一個は以下のごとくだということだ。
○一個でも「重ね合わせの原理」において「重ね合わせ」は行われている。このことは、電子という量子一個は、それ自体で以下の三つの形態を物語る。
1、量子一個は、全体と同じである。
2、量子一個は、全体と関係している。
3、量子一個は、全体の部分である。
このあたりのことは、拙著『恋愛的演劇論』に詳しいので、それを買って、買って、買って、読めばワカル。
ノイマンのいうような「意識」「超越自我」などのオカシナ観測者の主観による影響は、検出装置を正しいものに設定すれば、起こり得ない。「観測は、ミクロの対象とマクロの装置との客観的、物質的な相互作用であって、主観というコトバの印象が与えるような、非物質的、非因果的なものではナイ」(町田茂『量子論の新段階』)
では、装置なしではミクロの対象は存在を肯定出来ないのだろうか。そういうこともナイのだ。他の物質との相互作用によらずにその存在を知ることの出来る物質というのはナイからだ。これは物質がミクロだろうがマクロだろうが共通の客観性だ。
「密度行列」についても、拙著『恋愛的演劇論』に詳しいので、それを買って、買って、買って、読めばワカルので、前述したが、量子の時間についてもう一度述べるなら、量子が検出装置と相互作用する前の時間はt=-∞、だし、検出装置を通過して相互作用したアトは、t=+∞、になる。「猫」の場合も、観測の「瞬間」というコトバが使われるが、これはあまりに安易で、それはマクロにおける「瞬間」でしかナイ。ミクロの量子の場合の瞬間は「無限大」の時間として扱える。
以上、量子力学的な横道において、私たちに残された問題があるとすれば、では「時間」とは何なのだ。という、オソロシイ難問(アポリア、Aporia,「行き詰まり」「問題解決能力の欠如」「困惑」「当惑」)だけだ。
それについては、いまのところ、以下の思いつきを箇条書きするしかナイ。

/時間が物質ではナイとすると、意識が対象としているモノではなく、それ自体になる。あるいは等価になる。/しかし、確かに時間は物質ではナイ。にも関わらず物理学的に扱われる。/蜻蛉の1時間と人間の1時間は違うのだろう。では、何が違うのか。/物質の相互作用によらずに存在を知る物質は存在しないのなら、相対的な時間は物質なのか。/
カントでいえば先験的なモノなのか。/例えば、二種類存在するというのはどうか。意識としての時間。時間子という量子としての時間。この世界全てを量子力学で観ればそれもある。/と、すると、時間はエネルギーを持つことになる。/光が粒子であり、しかし、質量は0であり、時間も0であるけど、粒子として物質であるのと同じように、時間もそれと等価なのかも知れない。/ともかく、光と何か関係してることは考えられる。つづめていえば、光の属性なのかも。/暗闇という状態は存在しない。ただ、波動をヒトが可視的に捕らえられないだけだ。/ある時は、それを光として捉え、ある時は時間として捉えるという「等価原理」があるのでは。/すると、老いていく、エネルギーの減衰、というのは、光としてのエネルギーを減衰していくこと。等価原理としていえば、時間にエネルギーを持ち去られることになる。/

でと、おつかれさま、としかいいようがナイが、ここらで、量子力学領域から、釈迦の思想(思考)へ還ろう。

2015年7月24日 (金)

And in the End⑰

「シュレーディンガーの猫」は、いったい何を観測(実験)しているのだろうか。ここで、ちょっとタイセツ(重要)な手続きをふんでおかねばならない。それをふまないと、ウンコを踏んでしまったり、糞で置かねばならなくなったりするからだ。それは、「測定」と「観測」というコトバの定義、その差異についての正しい認識だ。んで、定義しておく。「測定とは、ある装置を使って実験し、最終的にある計器の目盛りを読み取り、その数値から、ある対象のもつある性質について知る。つまり、得られた数値から、対象の始めの状態についての情報が得られるような過程」をいう。「観測とは〈厳密〉には、装置が与えた測定値を観測者が観る過程までを含む」ものをいう。これは、町田茂さんの定義なのだが、ナンダヨ一緒じゃないか、前者はうまく観測者を消しているだけじゃないか、と、半畳入れたくなる。本人は微妙なものだとことわってらっしゃるが、もちっと簡単に分別することは出来る。私のような門外漢にもワカルように私が私にいうならば、たとえば「顕微鏡を観測者が視ている。覗いている」これはどうしたって「観測」に該る。実験されたデータが次々と送られてくる。いまなら3Gなんかのデータ通信で。それを科学者が読み取る。そこから得られる数値は測定値だから、これは「測定」になる。この場合、観測者は実験(測定)に全く関与していない。
ここまでなら、量子力学も問題なくやっていけた。ところが、後者についても疑義が発生した。「測定装置」をどう考えるか、だ。これは、私が演劇論をあーだこーだと考えてた際に、さまざまな「学」から何か演劇に使えるものはないかと、量子力学に手を出したときに、のっけから疑問だったものだ。(私は量子力学が勉強したかったワケではナイ。数学や哲学や、物理学や、およそ演劇とは縁遠いものから、演劇に応用出来るものが何かナイかと、類推〈Analogy・アナロジー〉したり、引用したりと、よくいわれるところの思考のanarchismとやらをやっていたとき、いってみるならそれぞれの概念をカスタマイズ〈customize・必要に応じて自分流に変換していく〉していたときの道程の中に量子力学という便利なものがあったというワケだ)。
で、のっけの疑問というのは、前述したと思うが、電子がスリットを通ってフィルムに到達して痕跡を残すとき、フィルムもまた量子のかたまりだから、それは、ほんとうに電子の痕跡といえるのか、反応ではないのかという、そういうものだ。
ここで、先にカタをつけておくべきだからそうするが、電子を一個発射して、フィルムに一つの点(電子の痕跡)が出来る場合も、電子という量子の「重ね合い」は生じている。何故なら、その量子は、○Aと○Bを同じに(つまり波動として)通過してきたからだ。一個の電子は○Aと○Bを通過した波の干渉なのだ。
もとえ、「測定装置」もまた量子のかたまりだ。では、何処で量子は最終的に観測出来るのだろうか。この問いを投げかけたのは、時の大数学者フォン・ノイマンで、数理経済学者なんかは、ノイマンの「ゲーム理論」なんかを、まさに「どや顔」で解説するのだが、そのわりには、現在の世界的不況がどうにかなっているとは思えない。(遠山啓老師が生きてらっしゃった頃、数理経済学については、「ちょっと勇み足なんじゃないの」みたいな発言をされている)。
「シュレーディンガーの猫」の場合、「猫」は観測(測定)の対象のように述べられている。では「猫」の何を測定しようとしているのだろうか。もちろん、蓋を開けたときに、生きているか死んでいるかということをだ。が、観測過程というのは、ミクロの対象と測定装置との相互作用の過程をいう。量子力学においては「波束の収束」が起こったときを測定の結果とする。「波束の収束」というのは、波形でいうならば、最も強い波形が現れた部分。ダブル・スリットの干渉縞でいうならば、最も密度の濃い部分をいう。つまり、「重ね合わせ」が最も多い部分だ。量子力学の場合、先述したようにたとえ一個の量子でも「重ね合わせ」だ。従って、「重ね合わせ」はあちこちに起こる。いわゆる「波束」というものだ。量子力学が〈確率〉を扱うのは、その「波束」が、もっとも収束する部分を測定するからで、これは確率でしかナイ。コトバをかえれば測定装置との相互作用によって、「波束の収束」がイチバン高く生じたところ、そこを測定最終地点とする。
ところが「猫」はどうだ。蓋を開けるまで結果は50%の確率しか持たない。これでは、観測の意味がナイ。そこでシュレーディンガーは、量子力学はこんなもんだよと、さっさと足を洗って、分子生物学の方向に進んだのだ。
フォン・ノイマンのいいぶんを聞こう。
「測定しようとするミクロの対象があるとします。もちろん、これは波動関数で表されるものです。干渉を起こし得るでしょう。それを何かの装置、たとえばフィルムを使って検出するとします。ミクロの対象もフィルムも相互作用しますから、衝突によって起こった事象の変化は、これも一つの波動関数に過ぎません。ここでも干渉が観測されます。さて、私たちはそれらを肉眼で観ることが出来ます。フィルムからの視覚刺激は網膜に入ります。すると網膜も同様に干渉を生じ、波動関数で現されることになります。そうなると、さらに視神経、脳、とどこまでいっても干渉は起こり、波動関数で現されることになります。
これはキリがありません。量子力学においては、すべてが重なった状態ですから、どこかで、非因果的過程に転移して波束の収束が起こらねばなりません。とすると、それは〈意識〉もしくは、〈抽象自我〉ということになります」
ついに観念論に到達したワケだ。
実は、シュレーディンガーは、このノイマンのいいぶんを得て『量子力学の現況』という論文を書き、そこに「猫」を登場させて、ノイマンへの批判とした。ノイマンの理論からすれば、猫も観測装置と同じになる。波動関数の中にある。よって「生きている状態」と「死んでいる状態」の重ね合わせ(干渉)が生ずるというものだ。
同じことを別のバージョンでいうならば、この実験を一つの実験室で私がやって、蓋を開けて「猫」の「生死」を確認したとき、死んでいたらそのサインを出すとする。手を挙げるだけでイイ。そのアトにあんたはんが、そこに行く。すると、あんたはんからしてみると私も観測装置の一部となるので、あんたはんが自分で実験室を覗いてみるまでは、私は手を挙げた状態と挙げない「重ね合わせの状態」になる。これではキリがナイ。「シュレーディンガーの猫」をかのように解説している量子力学の本も、私は読んだことがある。この本は状況は述べているが、本質はまったくthroughしていて、けっきょく、無駄骨だった。
しかしながら、ノイマンのいいぶんでいくと、これはもう「唯我論」の世界に突入なのだ。
だから、要するにシュレーディンガーは、「猫」という対象もまた装置に変ずるので、キリがナイぞという揶揄を、この実験で述べたのだ。先述したように、足を洗いたくもなるというものだ。
では、「波束の収束」は測定出来ないのだろうか。そうではナイのだ。そこには、測定装置がマクロで、対象がミクロだという、事象と相互作用との関係と、量子の持つ「時間」とが加わってきて、「密度行列」という波動関数では現せない量子の動きがあるのだ。しかし、この辺りは、本論とかなりかけ離れたから端折ってもイイんだけどね。ついでだからなあ。

2015年7月18日 (土)

And in the End⑯

And in the End⑯
さあ、ここまで、よくワカランかっただろうと思う。少しはワカッタが途中でワカランというひともいたろう。しかし、これを全てワカルように懇切丁寧に書いていくと一冊の書籍になってしまう。
もう少しワカリヤスク書きたいのだが、残念なことに私はこのブログ欄に図を描く方法を知らんのだ。そのリテラシー(読み書きの技術)さへ駆使出来れば、百聞(書き)は一見というワケで、ああ、そういうことかとすぐに理解してもらえるのだが、まことに残念。
とはいえ、出来るだけのことはやってみる。まず、「量子力学においては古典力学のような〈法則的自然観〉というものはナイ。観測されていない自然というものは、客観的には運動していない」というのは、どういうことかというと、読んだ通りのことで、量子の運動(動き)には何の法則性もナイということだ。けれども「法則性がナイという法則はアル」のだ。ある客観性というものだが、それが、「これを観測すると、一つの結果を観ることは出来る。しかしそれは、あくまで、自然の中の〈一つ〉にすぎない」ということになる。この一つの結果を観る客観性は、ハイゼンベルクの提唱した不確定性関係としてよく知られている。この不確定性関係は数多の物理学の新書や哲学関連書、入門書、ガイドブックなどで〈不確定性原理〉と書かれていることが多い。しかし、これは原理ではなく、あくまで量子力学の幾つかの原理から導かれた結論といっていい。まともな量子力学の書籍においては「関係」と称されている。(未だに〈原理〉と書かれているなら、そのての本は棄てなさい。たいてい他の事項もアヤシイから)。いまその「不確定性関係」について詳細を書く時間も紙数もナイので(それで一冊の本になる)、ここでは省く。興味のある方は、そのての一冊本なら書店の何処かに並んでいるはずだから、捜してお読みになればイイ。
次に「これは、観測者の関与や観測機器に因るものではナイ。それらは一切、観測には入り込まない」というのは、たとえば、これも素粒子物理の新書の中でさへ、「観測者が顕微鏡をのぞくとその眼から出た波動(光)で、対象が影響を受ける」てなことが書いてあったりする。こんなのをいったいどれだけ読まされたか。読むたんびに、納得のいかない思いだけが残った。たしかに極々微細には、対象に眼からの波動はぶつかるのだが、語弊をおそれずにたとえをいえば、それは、私たちが月をみたら、どれだけ月の動きに影響があるかといっているのと同じ程度で、たしかに月もまた量子の塊なのだから、その動きに影響はナイとはいえない。が、六十億の地球人が一斉に月を観ても、月が微動だにスルことはナイ。
そもそも、イチバン重要なのは、そういうところで、量子の観測においては観測者が入り込む(関与する)ことはナイ、ということのほうなのだ。これが、「シュレーディンガーの猫」における、シュレーディンガーの皮肉をこえていくにはタイセツなのだ。
そこで、まず私たちはここまで転戦する。「古典力学では、運動量は一つだが、量子力学では、それは三つになる。○物理量(位置、速さ、方向)自体、○その測定値、○数学的表現(作用素)」だ。では何故、三つにもなるのかというと、量子というものが「波動」でもあり「粒子」でもあるという(もちろん、「波動」でもなく「粒子」でもナイという逆のいい方も可能なのだが)、これまたどうしてもイメージ不可能なモノだということを理解することから始めなければならない。適当な「オッカムの剃刀」でもあればイイのだが、ここにはそういう便利なものはナイ。だから、何故「波」であって「粒」なのかという、これこそ量子の〈原理〉を了解する作業から始める。これが理解出来れば、「重ね合わせ」ということがどういうことなのか、ワカッテくる。そうすると「猫」が生きているのと死んでいるのとの「重ね合わせ」だといわれてしまうのかという理由もワカル。
これには有名な「ダブル・スリットの実験」を解説していくのが最も適切だ。図が描けないので、苦肉の策でこんなふうに記す。
□→・・これは電子銃だ。ここから矢印の方向に電子を飛ばすことが出来る。
| ○A  ○B |・・これは実験用スリットでAとBに○こういう穴があいている。二つ穴があるのでダブル・スリットという。                    |/////////|・・これがフィルム(検出装置としてもイイ)。いまその素材の量子については便宜上、問題にしない。
これを並べる。              
□→~~~~~| ○A  ○B |~~~|/////////|
電子銃から発射された電子は~~と進んでスリットの○を通り~~と進んでフィルムに到達する。フィルムが感光する。といった具合だ。
たとえば、電子を一個発射して、それがフィルムに到達、感光がみられたとする。
□→~~~~~| ○A  ○B |~~~|///////・//|(図P)
と、こんなふうになる。ここで私たちは電子の粒子が○Aか○Bかを通ったというイメージしか持てない。たとえば電子をパチンコ玉に見立て直せば、その通りだ。けれども、それは古典力学(ニュートン力学)のカテゴリーならば、そうだということだ。ほんらい、この実験では、電子を次々に発射すると、フィルムの感光に縦縞の干渉縞が現れることから、量子(電子)の波動性をいうことに用いられるのだが(つまり電子は○A○Bの両方を同時に通っている)、
あえて、この(~~~~)の部分について言及してみよう。つまり、電子がスリットに到達、通過、フィルムに到達する、その過程において、量子はどんなふうになっているのか、ということだ。そのときは「粒」なのか「波」なのか。
(図P)においては、フィルムに到達しているその状態は「粒」だが、たとえ1時間の間隔をおいて、電子を発射しても、1秒間に数万個の電子を発射しても、フィルムには縦縞の干渉縞が現れることから、一個ずつだろうが、数万個一挙にだろうが、量子(電子)は一個の場合でも数万個の場合でも、時間の間隔にも関係なく、「波」であり「粒」として移動しているといわざるを得ない。では(~~~~~)の部分では、どこまでが波状で、どこが粒状なのだろうか。この状態を量子は、物理量(位置、速さ、方向)自体、と、数学的表現(作用素)として、運動しているのだが、(~~~~~)の部分においては、粒でもなく波でもなく、量子力学的状態として移動しているとしかいえない。ここが古典力学との大きなチガイだ。物理量自体としては、不確定性関係によって、位置と速さ、方向は同時に求められない。しかし、数学的表現としてなら、シュレーディンガー方程式によって、複素数平面の関数として求めることは出来る。これを波動関数というのだが、複素数ゆえに、二元数(実数と虚数の二つの単位を持つので)だ。(古典力学や日常世界は一元数)。複素数だということは虚数を含むので、観測機器には引っかからない。計器の目盛りに現れるということはナイ。
シュレーディンガーは、量子を「波」と考えて波動力学という量子力学を提唱した。これは一つの量子の在り方だ。「波」ということならば、量子は「重ね合わせる」ことが出来るということだ。(これを「重ね合わせの原理」というのだが、つまり「猫」が「生死の重ね合った状態にある」というのは、この辺りからきている)。
数学的には、こういうことが出来るのは、ベクトルだ。よって、波動関数の状態から、さらに波動関数を求めていくことを「状態ベクトル」と称して、これを波動力学における作用素と称する。
要するに、「シュレーディンガーの猫」において、「猫」は「生死の重なり合い」に在るということはワカルが、生死のほどは、蓋を開けないとワカラナイというのは、まさにこのことだ。では、「シュレーディンガーの猫」は、いったい何を観測(実験)しているのだろうか。        

2015年7月17日 (金)

九段の件

〇進め一億火ダルマだ・・・(熱そう、そいで怖そう)
〇欲しがりませんカツまでは・・・(串カツで一杯なんて、いい時代だったな、てなことを懐古しつつ、漬け物で飲む時代にならなきゃいいけどナ)
〇贅沢はステキだ・・・(貧乏人は日本からいなくなります。だって、飢えて死ぬもん)
〇公安矢の如し・・・(ほんと、すぐ来るよ、そのてのヒト)
〇日本人なら贅沢は出来ないはずだ・・・(これ、そのまんま。だって普通の生活するのがやっとだもんな。出来ないよ)
〇生めよ殖やせよ苦にのため・・・(これも、そのまんま。のハズだったが、打鍵したら変換がマチガッテ表示されたので、これもよかろうかと)
〇聖戦・・・(あのね、日本もそういってたのよ。ISだけじゃナイの)

なんか、くだらなく、かつ、つまんなくなってきたので、ヤメ。

「アベ政治を許さない」なんて書いて掲げて、強行採決のときの野党だけど、与党は全国から「アベ マサハル」「アベ セイジ」って名前のヒトを募集して、たすきに名前書いて、「オレのどこがゆるされねえんだぁっっっ」と千代田区九段辺りを行進させてはどうかという案が、とある議員から出されたとか。
ある遺伝子学者によると、レミングとホモ・サピエンスのDNAは似てるんだそうだ。本能って怖いワ。
「年金に 優る杖なし 老いの坂、身につく年金 落ちつく老後、たしかな年金 ゆたかな老後、年金はみのる人生の秋、明るい人生 老後に年金、まいた年金 老後にみのる」(郵便年金 昭和十一年 の宣伝文句)
国民老齢年金も四十年納め続けたナア。国民年金基金もやった。んで、現在一カ月に5万円程度支給されて、アホらしゅうて、この現世には何の執着(しゅうじゃく)もナイわ。
こないだ乗車したタクシーの運転手はん、いうてたナ。「年金は前倒しでもらわんとアカンですよ。六十五まで待ってたら、支給額が下がってるか無くなってるか、ですよ。私の同僚が、自分は六十五まで待ってるとか意固地になって、六十五になるほんの手前で、ガンで死にました。死ぬ直前に悔しいっ、て、泣いてました。それよりも、いまの若いひとはほんまに可哀相ですわ。何が可哀相、辛い、運悪いいうて、将来がナニもナイということほど酷いことはナイですワ。集団的自衛権もへったくれも、要するにお客さん、いまの日本にナンか、守るもん、在るんですか」

2015年7月10日 (金)

And in the End⑮

訃報ありて寂寞の夜に独り在りこれを孤独といわば腑に落つ

まず、量子力学に対する誤謬、錯誤がなぜ専門の物理学者においても起こりうるのか。つまりや、その御方たちの書かれた書籍を私は何冊も読んでんねん。ほんで、やっぱりオカシイと疑問符を持ち続けてきた。だから、著名な社会学者やミステリ作家が、それを応用、引用したマチガイは無理もない、としかいいようがナイねん。
ともかく、一つずついく。
☆古典力学(ニュートン力学)はマクロのものを扱うので、マクロのものとマクロのものを比較する場合、認識の仕方は同じだ。
☆そうしてそこ(の自然)には〈法則的自然観〉というもの、いいかえれば「秩序」というものがある。
☆理論は、その外部に対象を持っている。
☆すべての理論は作業仮説をその内に持っている。
ところが、
☆量子力学においては〈法則的自然観〉というものはナイ。どういうことかというと、観測されていない自然というものは、客観的には運動していない。けれども、これを観測すると、一つの結果を観ることは出来る。しかしそれは、あくまで、自然の中の〈一つ〉にすぎない。(これは、観測者の関与や観測機器に因るものではナイ。それらは一切、観測には入り込まない。・・・これが、ちと重要なとこなんや。ここでたいてい間違えるからなあ)
☆もう一つ、錯誤につながるものの代表として、「私たちは古典力学をイメージすることは出来るが、量子力学をイメージすることは出来ない」のに、ついつい、量子力学をイメージしてしまうところだ。たとえば、量子(電子としておくが)が、スリットを通過した、というイメージを私たちは、どうしても古典力学的にイメージしてしまう。しかしそれはマチガイなんや。電子は「量子力学的にスリットを通過している」のだ。それを「時間」で捉えると、マクロの時間はT=h→0でも量子力学の時間はT=∞になる。つまり古典力学でいう「瞬間」は、量子力学においては「無限大」の中の一つでしかナイということだ。瞬間的に電子がスリットを通過した、というのはあくまで古典力学のイメージにすぎない。これは、古典力学における「時間」と量子力学における「時間」とは、別々に現実に存在する、ということだ。
☆古典力学において理論的対象を数学の方程式で現すと、一つの「解」が求められる。これは測定対象の予想(現象)と1対1対応する。しかし、量子力学においては、1対1対応しないのだ。量子力学においては、その法則として「決定論的なもの」・・・これは偶然も確率もナイ(波動関数はここに入る)ものと、「確率的、偶然的対応」・・・これ非直感的というのだが、この二つがある。
☆古典力学では、運動量は一つだが、量子力学では、それは三つになる。
○物理量(位置、速さ、方向)自体、○その測定値、○数学的表現(作用素)・・・作用素とは、波動関数(状態ベクトルという)を他の波動関数に変える作用をいう。で、状態ベクトルいうのは何や、というと、「波と波の重ね合わせ」のことを、そう称するんや。つまりや、量子というのは「重ね合わせ」の状態だと、おおまかにいうとそういうこっちゃ。
☆もし、どうしてもイメージしたかったら、ある量子がダブルスリットを通過するとき、それは(シュレーディンガー方程式における複素数平面の)雲だとイメージしてもイイ。これがスリットのA、Bを通過して(ほんまは波動、波なんやけど)、フィルムに到達するときは粒子として到達すると、そう考えればイイ。
☆そうすると、量子というのは、一個それ自体で干渉していることになる(重ね合わせになっているということや)。
これだけ、量子力学と古典力学とでは、根本的な差異があるのだが、私たちは何故、この両方の世界を生きているのだろうか。というより、量子力学と古典力学の関係はどうなっているのか。これについては、
☆古典力学は、量子力学が相転移したものだ。と、考えておけばイイ。
まんず、面倒なことは省略して、ここまで解説したが、「シュレーディンガーの猫」をとっ捕まえるには、もう一つ、難問がある。これぞ、私もまた、さまざまなそのての書籍を読んで、合点のいかなかったことなんやけど、たとえば、「電子の観測をするのに、いま一個の電子をフィルムに飛ばして、フィルムに電子の痕跡が出来た」という文言は、どうしても納得出来ないでいた。そやかて、フィルムもまた量子の集まりやないか。ほな、それは電子の痕跡ではなく、電子とフィルムの反応(相互作用)とチガウんか。フィルムは決して測定装置には入らない。というものだった。これは、どの書籍に該っても明確な解説も説明もナイ。マクロなものもミクロの集合だとするなら、何を「測定装置」と呼べばいいのか。いったい、量子の測定など出来るのか。
これについては、私の「疑義・疑問」は正しかったらしく、最近になって、「観測理論」と、この分野は称されて、物理学者のあいだでも喧々囂々、侃々諤々、議論されていることがワカッタ。
んで、やっと、まともな「観測理論」に巡り逢った。町田茂さんのものだが、このひとは唯物弁証法をキチンと学ばれていることが、著作を読むうちに理解出来た。
さて、昼飯の拵えしようっと。「猫」をとっ捕まえるのは、もうちょっとやで。もらろん、そこから釈迦の思想にもどるのも、アトちょっとや。

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