And in the End⑫
「八正道」とは前述したが、「正しく見る・正しく思索する・正しい言葉を用いる・正しい行動をとる・正しい生活をする・正しい努力をする・正しい心を養う・正しい心を定める」(ちょっと意訳)の八つだが、この数はどうでもイイ。私たちの問いかけは「〈正しく〉とは何か」だ。
「正しく」この道を歩むと、悟りへと導かれる。つまり、「八正道」とは悟り自体ではなく、そこに到る道程を示すものだ。そこで、私はこの「正しく」を私なりのコトバでいいなおしてみた。釈迦は宇宙(世界)が「デタラメ」(デタラメ=混沌)から生成されている秩序だということを解した。そこで「正しく」は、こういうコトバに置き換えることが出来る。「デタラメだということをみる」「デタラメだということを理解するために思索する」「(少しいい方を換えるが)言葉というものはデタラメだということを心して用いる」「(これも同じくいい方を換える)ひとのとる行動はデタラメだということに留意する」「生活はデタラメになってしまう→(エントロピーの法則)」「努力はデタラメになってしまうということを考慮する」「心というものはデタラメだということを識るべきことに注意をはらう」「心はデタラメだということを覚悟する」
えらくパラドックスに思えるだろうが、「正しく」とは、宇宙(世界)、あるいは現象というものは「テタラメ」だということを識知する思考を鍛える(修行する)ことに他ならない。
しかし、解いただけでは、意味がナイ。宇宙(世界)がデタラメだと識って、そのアト何が在る。そこで、「悟り」の別名、「解脱」というコトバを借りてくると、「〈解〉したら、そこから〈脱する〉」という理路が設けられる。そこで、私たちは、釈迦の感得した「デタラメ」というもの(現象)について、深度を下げていこう。ナニをして釈迦は「デタラメ」を解したのか、だ。教条仏教の修行者たちは、おそらくこんなことは考えた、いや寸分も気にとめたこはナイ、思いもしたことはナイはずだ。こういう思考の自由さは、出家者ではナイ私たちの特権ともいうべきものだ。ふつうなら、ここで「十二因縁」なるものが飛び出して、その解釈とされるのだが、私は「十二因縁」というシステムなど、まったく信用していない。
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