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2015年5月 4日 (月)

And in the End⑪

「執着するな」は、べつに仏教の専売特許ではナイ。そんなふうに思われているのだが、ヒンドゥー教にも、似たような教えはある。たとえばヒンドゥー教の聖典『ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では次の文言がある。「執着する者は、自らの業(カルマ)とともに向かう その者の精神と性格が執着するところへ」
もう一つ、執着と直に関することではナイが、アルヴィンド・シャルマ(カナダ・マッギル大学教授)は、『世界の宗教』(日経ナショナル ジオグラフィック社・刊)の中のコラムで次のようなことを書いている。マハトマ・ガンジーの生き方、考え方、宗教に対する姿勢に感激した、ある旅行者が、ヒンドゥー教の指導者(スワーミ)のもとに行き、キリスト教では心が満たされないので、ヒンドゥー教に改宗したいと告白した。すると、スワーミはこう答えた。「あなたは真剣にキリスト教徒たろうとしたことがあったでしょうか。キリストの教えを完全に理解して、それに従って生きてきましたか」、旅行者はこう返答した。「残念ながら、そうとはいえません」、そこでスワーミはこう訓戒する。「では、まずは、真のキリスト教徒におなりなさい。それでも満たされないのなら、そのときにどうするかを考えなさい。あなたが変えなければいけないのは、信仰ではなく、あなたの生き方です」
おそらく、この旅行者が釈迦のところにいって「仏教に・・・」といったとしても、釈迦もまた同じことを述べたにチガイナイ。ヒンドゥー教は、たしかにバラモンの影響から階級を定めてはいる。しかし、私たちが印象しているその宗教よりも「寛容」なのだ。
話をもどして、「執着」というものについて、もう少し考えておく。「執着する」があるならば、「執着される」という受動動詞も存在する。この「執着する-執着される」の関係は、あるいは了解は、〈対幻想〉を持ち出せばすこぶるワカリヤスイ。〈対幻想〉つまり恋愛(男女の性的関係)においては、「執着する-執着される」はそれ事態、善悪を判断させない。「私だけを愛して」「あなただけを愛する」が恋愛の最高綱領なのだとしたら、「執着するな」は「それほど深くあなたのことを慕っていない」に位相が動き、相対する異性においては「不満」のタネでしかナイ。こんなことは、釈迦にはよくワカッテいた。何故なら、シッダールタの出家は妻子を棄てたことに他ならないからだ。つまり、卑近なコトバでいえばただ「ジャマだった」のだ。さまざまな仏教文献は殆ど同様に、シッダールタの出家に、その妻ヤショーダラーは嘆き、恨んだとある。そりゃそうだよナ、なんの相談もナシに、ポイと棄てられて、黙っている女がいるワケがナイよ。『ブッダチャリタ』には、妻ヤショーダラーの罵りが記されてあるが、『ブッダチャリタ』は経典ではなく、数百年後に書かれた仏伝(物語)だから、面白おかしく書いてあるということには考慮すべきだが、作者の馬鳴(めみょう)は詩人だったから、女性心理にも造詣が深かったと思われる。「あの野郎、嫉妬深く、口論が多く、怒りっぽい私を棄てて、天女でも抱くつもりだな」てなヤショーダラーの罵声が書かれている。ひとことの相談もしなかった釈迦(シッーダールタ)もよくないが、さて、相談したところで、出家の理由が理解してもらえたかどうか、こいつは難しいネ。だいたい、自分の旦那が急に「オレ、この世の真理を求めに家を出る」なんてことを嫁さんにいうたら、「あんた、もう、早よ寝えっ」といわれるのがオチというものだ。

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