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2015年5月

2015年5月21日 (木)

狂言役者の悩ましきイイワケ


量子力学への再突入をするにつけ、「シュレーディンガーの猫」は別個に稿を設けて検討したほうがイイような感触になってきた。おそらく、こうではナイかという見当はついているのだが、踏み込むにつけ、戯曲『デザートはあなたと』では、マチガッタ解釈をしていたことに気付いて、これはもう迂回というより旋回に近く、釈迦のほうは釈迦の思想の探求というカタチで続けたほうがイイという方向に傾いてきている。
たぶん、そうするつもりだが、「たぶん」というのは、このところき鬱病症状のキツさがMAXに近く、一日の大半を生ゴミになっているので、思考に余裕というものがナイ。抗鬱剤を以前のものにもどして、いましばらく効果のハッキリするまで待つしかナイ。
私のこのブログの読者は100~200人程度だが、これは員数の問題ではナイ。信頼の問題だ。したがって、しばし、といってもいつといえないところが、まさに量子力学そのもののようでもあるのだが、投げ出すつもりはナイので、お待ち願いたい。

2015年5月16日 (土)

幕間(まくあい)の狂言

釈迦の悟りともいえる「デタラメ」を「シュレーディンガーの猫」から繙くつもりが、選択をマチガッタかと、反省しているところで(狙いは正確だったのだけど、もちっとワカリやすいのにすれば良かったという意味だ)、着地点はワカッテいるのだが、「シュレーディンガーの猫」を(というか、それにまつわるさまざまな誤謬を)解き明かしていかねばならないことになってしまったのが、ブログのしばらくのブランクの理由の一つだ。他にも、鬱病症状による弊害やら、他の仕事に追われてというのもあるにはあるのだが。ともかく、この「猫」をどうするか。やっぱりキチンとやっておこう、と、そう考えたので、釈迦からかなり迂回することになるが、ネットで展開されている「シュレーディンガーの猫」の論壇も、ひでえのになると、量子力学を信じているいるものは、狂人か「トンデモの類」てなのもあるゆえ、ともかく、今一度、自分が学習しきた量子力学について、確認をしなおす作業にはいることにした。
よって、少々、のんびりと、お待ちねがいたい。これだけは述べておくが、ニールス・ボーアの見識は正しい。むろん、釈迦の悟りの「デタラメ」も、虚構の物語としては、正鵠を射ていることにブレはナイ。

2015年5月 8日 (金)

And in the End⑬

アインシュタインの相対性理論や、シュレーディンガーの波動力学を非ニュートン力学だと勘違いしているひとたちは多いが、両方とも私の学問の識知内においてはニュートン力学の範疇に収まるものだ。相対性理論はともかく、波動力学は量子力学のために研究考案されたものだが、シュレーディンガー自身は、この研究において量子力学に疑問を持つようになり、やがて、量子力学からは遠ざかった。それは、アインシュタインと同じような疑義だ。ニールス・ボーアとアインシュタインの論争は理論物理学の歴史に残るものだが、シュレーディンガーとハイゼンベルクの論争もまた、そうなのだ。
要するに、両者の量子力学に対する疑義は量子の運動に対する〈確率〉というコペンハーゲン解釈についてだ。アインシュタインの量子力学に対する疑義は、アインシュタインがボーアに述べた有名なコトバ「神はサイコロを振らない」で知られるが、実はこれにはつづきがある。このアインシュタインに対してボーアはこう応えているのだ。「アインシュタインよ、神が何をなさるかなど、注文をつけるべきではない」(お見事)。アインシュタインのコトバは、スピノザの提唱した世界観(宇宙観)に依拠していることはいうまでもナイ。つまり、目的はナンであるかはワカラナイが、のっけの偶然はナイ、という有神論的なものだ。ボーアはそれに対してやんわりと応じたが、囲碁でいえば相手の打ち過ぎをとがめるようなキビシイ一手だ。
このように両人は「思考実験」において多く論争を繰り返したが、アインシュタイン×ボーアのほう(例えば「二重スリットの思考実験」)は、今回は取り上げない。ここでは、もう一つの有名な思考実験「シュレーディンガーの猫」について取り上げる。(釈迦はどうなったのっ、と慌てんじゃナイの。理論というものは結論は単純だが、そこに到る論理は面倒なのだから。ただし、ことわっておくが、私はここで私の論理を明示しているのではナイ。あくまで私の思考を展開してんだかんね)
余談だが、「二重スリットの思考実験」については、東北大学多元物質科学研究所の上田潔教授、フランスのソレイユシンクロトロン放射光施設のCatalin Miron研究員のグループ、スウェーデン王立工科大学のFaris Gel'mukhanov教授らの合同チームが、酸素分子2個の酸素原子を二重スリットに置き換えることによって実現し、ボーアのアインシュタインに対する反証の正しさを、初めて、実証することに成功している。(どういうことなのか、詳細について私も調べていないことを告白しておくが、この実験は「思考実験」ではナイということだけは確かなことだ。『Nature Photonics』オンライン版[12月1日付け:日本時間12月2日]に掲載されているということなので、興味ある方はそちらを)
さて、「シュレーディンガーの猫」だが、これは別に「猫」が問題なのではナイ。しかし、「ミミズ」や「オケラ」よりは、roman があるという印象は、理論物理学者にはromanticist が多いことをいみじくも露呈しているかのようだ。たしかにロマンだよな。私なんかは、世間がイヤんなると、すぐ、量子力学の書籍を読むことで逃避しちゃうからな。もちろん数式という数学のコトバには苦労する。しかし、それは、音楽記号に苦労するのと同じだし、古代インカ文字が読めないのと同じで、記号の意味さへワカッテいれば、追っていけるものだ。また、そのほうがワカリヤスイことも確かだ。♯と♭のチガイがワカッテいれば、スコアを読むのには役立つ。スコアどおりに読み込んでおぼえた歌は、カラオケでも音をはずすことはナイ。と、では、その「シュレーディンガーの猫」に向かおう。

2015年5月 5日 (火)

朝、歩く

目覚めが酷く悪い。強い自殺念慮で、慌てるようにして起きて、ともかくそこから逃げるようにして、散歩に出る。鬱病に早起きと朝の光は、セロトニンの分泌を良くして効果があるそうだが、そんな目的のために歩いているのではナイ。
都市の朝の景色はghost townで、ひとの気配は無い。
『ムーミン谷の冬』がシリーズの中ではイチバン好きだが、そのときのムーミンのように「みんなが冬眠しているのに、独り眼覚めてしまった」あの、孤独でもない、寂しさでもナイ、何かしら「マチガッテしまった」という感覚はよくワカル。
余談めいて書くが、いがらしみきお氏の『I(アイ)』の問題提起はワカル。しかし、このての問題は、こんなに力んで描いてはダメだと思う。便秘のままで終わった、という感が否めない。神などは糞なのだから、詰まらせたらしんどいだけだ。『今日を歩く』も、なんでこのマンガ家は、こんなに力むんだろうかと、もちっと楽に散歩していれば、手塚賞もノミネートだけでなく、受賞したんじゃナイかと思う。
私は力むどころか、寝起きは自律神経のバランスが悪くて、ふらふらと歩いている。私はひとを観るより家、建築物を観るほうが好きなので、家を観る。邸宅とまではいかないが、お邸めいた、似たような多少は豪奢な新築の家が並んでいる。この辺りは、いまそういう土地になっているらしい。
クラモチくんが生前、何処だったか東京、私と二人、お屋敷、邸宅を観ながら歩いて、こういったのをおぼえている。
「よっぽど悪いことしなきゃ、こんな家は、建てられねえよ」
そんな家を観ながら朝、歩く。ひとが住んでいる気配がナイ。ときどき昭和の家が挟まって出現する。そんなふうに時滑りして、江戸時代の長屋とかに抜けられたらオモシロイだろうなあと、思う。
とても、退屈な朝だ。

And in the End⑫

「八正道」とは前述したが、「正しく見る・正しく思索する・正しい言葉を用いる・正しい行動をとる・正しい生活をする・正しい努力をする・正しい心を養う・正しい心を定める」(ちょっと意訳)の八つだが、この数はどうでもイイ。私たちの問いかけは「〈正しく〉とは何か」だ。
「正しく」この道を歩むと、悟りへと導かれる。つまり、「八正道」とは悟り自体ではなく、そこに到る道程を示すものだ。そこで、私はこの「正しく」を私なりのコトバでいいなおしてみた。釈迦は宇宙(世界)が「デタラメ」(デタラメ=混沌)から生成されている秩序だということを解した。そこで「正しく」は、こういうコトバに置き換えることが出来る。「デタラメだということをみる」「デタラメだということを理解するために思索する」「(少しいい方を換えるが)言葉というものはデタラメだということを心して用いる」「(これも同じくいい方を換える)ひとのとる行動はデタラメだということに留意する」「生活はデタラメになってしまう→(エントロピーの法則)」「努力はデタラメになってしまうということを考慮する」「心というものはデタラメだということを識るべきことに注意をはらう」「心はデタラメだということを覚悟する」
えらくパラドックスに思えるだろうが、「正しく」とは、宇宙(世界)、あるいは現象というものは「テタラメ」だということを識知する思考を鍛える(修行する)ことに他ならない。
しかし、解いただけでは、意味がナイ。宇宙(世界)がデタラメだと識って、そのアト何が在る。そこで、「悟り」の別名、「解脱」というコトバを借りてくると、「〈解〉したら、そこから〈脱する〉」という理路が設けられる。そこで、私たちは、釈迦の感得した「デタラメ」というもの(現象)について、深度を下げていこう。ナニをして釈迦は「デタラメ」を解したのか、だ。教条仏教の修行者たちは、おそらくこんなことは考えた、いや寸分も気にとめたこはナイ、思いもしたことはナイはずだ。こういう思考の自由さは、出家者ではナイ私たちの特権ともいうべきものだ。ふつうなら、ここで「十二因縁」なるものが飛び出して、その解釈とされるのだが、私は「十二因縁」というシステムなど、まったく信用していない。

2015年5月 4日 (月)

And in the End⑪

「執着するな」は、べつに仏教の専売特許ではナイ。そんなふうに思われているのだが、ヒンドゥー教にも、似たような教えはある。たとえばヒンドゥー教の聖典『ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では次の文言がある。「執着する者は、自らの業(カルマ)とともに向かう その者の精神と性格が執着するところへ」
もう一つ、執着と直に関することではナイが、アルヴィンド・シャルマ(カナダ・マッギル大学教授)は、『世界の宗教』(日経ナショナル ジオグラフィック社・刊)の中のコラムで次のようなことを書いている。マハトマ・ガンジーの生き方、考え方、宗教に対する姿勢に感激した、ある旅行者が、ヒンドゥー教の指導者(スワーミ)のもとに行き、キリスト教では心が満たされないので、ヒンドゥー教に改宗したいと告白した。すると、スワーミはこう答えた。「あなたは真剣にキリスト教徒たろうとしたことがあったでしょうか。キリストの教えを完全に理解して、それに従って生きてきましたか」、旅行者はこう返答した。「残念ながら、そうとはいえません」、そこでスワーミはこう訓戒する。「では、まずは、真のキリスト教徒におなりなさい。それでも満たされないのなら、そのときにどうするかを考えなさい。あなたが変えなければいけないのは、信仰ではなく、あなたの生き方です」
おそらく、この旅行者が釈迦のところにいって「仏教に・・・」といったとしても、釈迦もまた同じことを述べたにチガイナイ。ヒンドゥー教は、たしかにバラモンの影響から階級を定めてはいる。しかし、私たちが印象しているその宗教よりも「寛容」なのだ。
話をもどして、「執着」というものについて、もう少し考えておく。「執着する」があるならば、「執着される」という受動動詞も存在する。この「執着する-執着される」の関係は、あるいは了解は、〈対幻想〉を持ち出せばすこぶるワカリヤスイ。〈対幻想〉つまり恋愛(男女の性的関係)においては、「執着する-執着される」はそれ事態、善悪を判断させない。「私だけを愛して」「あなただけを愛する」が恋愛の最高綱領なのだとしたら、「執着するな」は「それほど深くあなたのことを慕っていない」に位相が動き、相対する異性においては「不満」のタネでしかナイ。こんなことは、釈迦にはよくワカッテいた。何故なら、シッダールタの出家は妻子を棄てたことに他ならないからだ。つまり、卑近なコトバでいえばただ「ジャマだった」のだ。さまざまな仏教文献は殆ど同様に、シッダールタの出家に、その妻ヤショーダラーは嘆き、恨んだとある。そりゃそうだよナ、なんの相談もナシに、ポイと棄てられて、黙っている女がいるワケがナイよ。『ブッダチャリタ』には、妻ヤショーダラーの罵りが記されてあるが、『ブッダチャリタ』は経典ではなく、数百年後に書かれた仏伝(物語)だから、面白おかしく書いてあるということには考慮すべきだが、作者の馬鳴(めみょう)は詩人だったから、女性心理にも造詣が深かったと思われる。「あの野郎、嫉妬深く、口論が多く、怒りっぽい私を棄てて、天女でも抱くつもりだな」てなヤショーダラーの罵声が書かれている。ひとことの相談もしなかった釈迦(シッーダールタ)もよくないが、さて、相談したところで、出家の理由が理解してもらえたかどうか、こいつは難しいネ。だいたい、自分の旦那が急に「オレ、この世の真理を求めに家を出る」なんてことを嫁さんにいうたら、「あんた、もう、早よ寝えっ」といわれるのがオチというものだ。

2015年5月 3日 (日)

お報せでございます

以下、宣伝文になります。

/今年もやります。〈Guitar Alive〉/
今回は、[live,live,Alive.]~夏は夢 黄昏はさらなり 今宵歌うもをかし~

大阪、初夏の一夜の夢をギターと唄の90分でお送りします。

出演
guitar&vo 岩崎正裕
volume1でも出演。関西小劇場1のギター弾き、いや、ギター好き。唄と芝居で世界を変える、演劇界のアナアケスト。劇団太陽族では、作・演出を担当。

guitar&vo 北村 想 
前世を占うと、なんと、かの楽園から放たれて、鼻垂れた、最初の人間アダム。一度月のウサギに生まれ変わったご様子。

☆ guitar&vo 山崎ハコ
紅一点、今回特別のお友達guest。ひとの縁と哀しさをせつせつと唄いあげます、永遠の少女。昭和の歌っこ。

日時■2015年6月16日19時30分スタート(前座あるかも)
※19時開場barオープン
ticket■1800円※1ドリンク付
場所■大阪市西成区松1の1の8
       カフェ+ギャラリー can tutku

予約ページはこちら↓
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_main_id=49340

どんぞヨロシク、ね。

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