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2015年4月22日 (水)

And in the End⑨

私は五人の修行僧が「悟り」の道程に入ったアト、ごく普通の青年に説かれた三論、「施論・戒論・生天論」のほうに興味がある。釈迦はこの青年(ヤシャ)には、まずこの三輪を説いた。そのアトで四諦に入った。ここでも、釈迦の説法が待(対)機説法だということがすでに描かれている。何故ならアシャは修行僧、沙門ではナイ、一般人だ。「施論」というのは「布施」のことだ。さちや老師は、その最も優れた解釈として曹洞宗道元の記した『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を引いている。簡約すると「布施とはむさぼらないことであり、むさぼらないというのは、へつらわないということだ」。さちや老師はこれを簡単に「ちょっとくらい損をしてもいいではないか、というのがそのココロだ」と、さらに解釈を入れる。これは「余裕」のココロだ。私などは、ここで損をしても、どっかで帳尻があうさ、と、欲張ったことを考えてしまうが。さらに、さちや老師は、こんなパラドキシーな論理展開をする。「われわれは、この世の中を馬鹿にしたほうがいい。ほんのちょっと軽視したほうがいい。いや、世の中の一般人のようにあまり世間を重視しなさんな」。世間の奴隷になるな、社会に隷属するな、ということだ。こういうの好きだね。まるで談志家元みたいでさ。
「戒論」は戒律のことではナイ。サンスクリット語に「悟り」というコトバはナイと前述したが、実はこの「戒律」というコトバもサンスクリット語には存在しない。おそらく漢語訳されるときに、つくられたものだろう。ほんらいは「戒」と「律」は独立したコトバで、「戒」は「習慣性(ここでは善い習慣性)」を、「律」は罰則規定を表す。在家信者には「戒」しかナイ。基本的にそれは五つあって、「殺すな、嘘をつくな、盗むな、あんまり淫らなオメコをするな、酒は飲むな」なんだが、これは、簡単にみえて難しい。酒を飲むな、くらいなら、肝臓を悪くして医者に止められるとか、まあ、そういうことでヤメルことも出来そうだが、医学的には、ドラッグ(たとえば覚醒剤)をやめることより、酒をやめることのほうが難しい。アルコール依存症がなかなか治せないのはそのせいだ。だって、そこいら中に売ってるからなぁ。この五戒はシナイ山のモーゼの十戒とよく似ている。どこがかというと、「やんなっ、ちゅうても、どうしても[本人の意思ではなく]やってしまうことが多いから」だ。淫らなオメコがアカンなら、正常位以外はアカンのかなあと思いつつ、バックスタイルもエエわ、と、そういうところが人間、衆生、有情だからなあ。つまり、五戒も十戒も、ひとにはなかなか出来ないことなのだ。従って、やってしもたら、反省すればエエと、釈迦は教えた。これを懺悔(仏教ではサンゲと読む)という。この考えはイスラム教でも似たようなことをいっている。(イスラムの場合は神さんにスンマセンというのだけれど)。
「生転論」は「輪廻転生」からきている。どうしたら天界に生まれることが出来るか、だが、釈迦が来世(あの世)の存在など信じていたかどうか、私は輪廻転生すら、釈迦は否定してしまっていて(つまり、そんなものはナイと断じた)、とはいえ、一般人の青年に対しては、そのごとく説いたのだと思う(対機説法だからね)。このとき、釈迦が青年ヤシャに説いたのは、さちや老師によると「現世だけが絶対だと思うな」だ。コトバを変えれば「現世にしがみつくな」。さらにもっといえば、「世俗なんかに束縛されるな」だ。これは、自身と世間(世界)の関係をどういう姿勢で生き抜くかという「覚悟論」だ。何も難解なところはナイ。しかし、青年に説法するには、みごとに的を射ている。

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