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2015年4月15日 (水)

And in the End⑤

ところで、この「初転法輪」のいわゆる「四・八・十二」だが、「悟りとはこれだ!」てなふうにすると、まるでテレビ・バラエティだ。仏教の勉強をやりなおす以前、かなり前になるが、さまざまな解説書・・(原書なんて読む能力はありません。というふうにいうと、教条仏教者たちは、それみろ、おまえの学問なんて素人の知識、せいぜい門前の小僧だ。と鬼の首でもとったようにいうに決まってんだけど、教条仏教者の学んだ経典や、修行だってかなりアヤシイ代物なんだから、そこんとこ胆に命じておけヨっ)・・で読んだときは、この何処が「悟り」なのっ。と、ついつい小馬鹿にしてしまって、次は「悟りとは何か」を論じた書籍を幾つか読んだりして、ますます混乱した記憶がある。「四・八・十二」について、それぞれ論評を述べられる見識、学問は私にはナイが、たとえば「八正道」についていえば、初心者(当時)の私にはさっぱりワカラナカッタ。どう、サッパリかというと。
「八正道」は「正しく見る・正しく思索する・正しい言葉を用いる・正しい行動をとる・正しい生活をする・正しい努力をする・正しい心を養う・正しい心を定める」(ちょっと意訳してますが)の八つだが、これだとまるで「標語」だ。「良い子はここで遊ばない」とのチガイはぜんぜんナイ。これが「悟り」なのかっ、えっ、んっ。たぶん、かつての私はこの「悟り」というものの追求あたりで、仏教への興味を失くしてしまっている。これならナンにでも「正しく」と付ければ、それでイイことになる。
いま識るに、この「八正道」は釈迦入滅、数百年の後々、経典作者によって編纂されたものだ。そこで、おそらく釈迦は、八つくらいではなく、「正しく寝る」とか「正しく食べる」とか、もっと数多くの「正しく」を述べて、元仲間の修行者を煙に巻いたにチガイナイ。だから、編纂作家は、そこんところはもうカットしちゃえってことにしたのだ。cancer
つまり、むかしの仲間に対する説法は、一日やそこらで終わらなかったと思われる。
議論(や、それに類するもの)をスルとき、テクニックとしては、相手のいうことに答えるのではなく、まず、相手の考えに疑問を持たせる、次に怒らせる。そうすると、たいていの相手は本音や本性というものを口にスル。これは上級にあたるが、こういうテクニックは使わないほうがほんとうはイイ。ほんとうは共に真摯に考えるのがイチバンなのだ。
ただ、叩きのめさないと仕方のナイ族や、慈悲をもってマチガイを指摘せずにはおかないものに対しては、これに、ソクラテスの「問答法」とチェスタートンの「パラドクス的応答(応対)」を付加する。なんでこれが上級にあたるのかというと、それなりの智慧と知識と、口舌(タンカ)が必要だからだ。
ともかくは、釈迦、タンカをきった。
元仲間の行者たちは、最初は釈迦の頭が変になったのかと思ったが、次第に自分たちの修行が「意味ナシ」と否定されていくことに腹が立ってきた。そうなると、釈迦の思うつぼということだ。
「八正道」でほんとうに「問題になる」のは〈正しい〉というコトバだけなのだ。この〈正しい〉をどう解するか。と、同時に釈迦の初転法輪は、釈迦の悟りそのものを述べているのではナイ。では、何を述べているのか。
「よう、聴きや。きみたちの修行の方法はマチガイなんや。そやから、私がほんとうの修行の方法、その方法を教えたる。ええか、それは〈テクニック〉というものではあらへんで。それはいうなれば「戒」や。道標みたいなもんや。さっちゃんは「羅針盤」やというてはる。さっちゃんて、誰て、それはまあ、ひ、み、つということにしとくワ。それと、私が教えるのは、到達すべき「悟り」という星の観つけ方や」
この「戒」こそは、釈迦のいう「自燈明」だ。では「法燈明」とは何だろう。ここで、時間を少し遡ることにする。

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