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2015年4月24日 (金)

And in the End⑩

「現世だけが絶対だと思うな」。コトバを変えれば「現世にしがみつくな」と、これを卑近にいえばこうなる「あのな、この、現在の世間なんてものは、いずれ滅びるんやで。こんなもん、たいしたことナイんや」・・・と、こういうふうに書けば、現世を否定して来世に・・などと釈迦は考えてなんかいなかったことはハッキリするだろう。
さて、次に釈迦は青年ヤシャに『四諦』を説法する。これは「四つの真理」という意味だ。
1、苦諦・・私たちの生存は苦である
2、集諦・・何故、生存は苦なのかというと、混沌から生じたさまざまな縁は寄り集まって苦をつくる、てなふうにこの宇宙はそういうふうになっているからだ。なってるんだからしょうがない
3、滅諦・・では、その苦しみを軽減させてつくる理想とはどんなものなのか
4、道諦・・その理想の状態にどうすれば、達することが出来るか、その方法。
ここから「四苦八苦」が説かれ、そうしてあの「八正道」が説かれる。
とまあ、そういう順序なんだけど、「四苦(生病老死)」をちょいと覗いてみると、「生」は「生きること」ではなく「この世に生まれてしまったこと」と解するのが正しい。原語ではそうなっている。だって生きていれば「楽しいこと」だってあるからな。「病」は、釈迦の時代と現代ではずいぶんとチガッテきている。医学の進歩がある。(そのワリには、能無しの医師が増えてもいるけど)。「老」も、アンチ・エイジングやら六十代はまだ老いとはいわない世の中になってきて、「七×(70%)をカケタ数が実年だといわれている。60歳なら、×0,7でだいたい半世紀前の42歳)。「死」は、誰だって死ぬ。古今東西死ななかったひとはいない。
そこで、これを乗り切る「道諦」だが、それが「八正道」なんだけど、その前に、そもそも「苦」とは何なのか。さちや老師はこれを「思うがままにならない」ことと、サンスクリット、パーリ語の原語訳からひっぱってくる。 で、「苦諦」はその答えも含んでいる。つまり「苦にするな」だ。思い通りにならないことを思い通りにしようとするな。そんなことをすると苦しむぞ。だから、そんなことをやめて「苦にするな」だ。とはいえだ、ここは、私としては半畳入れたい。私にいわせれば「苦にすると、苦しむことはチガウ」。つまり「苦しむことを苦にするな」とは論理的にいえない、というより、何もいっていないの同じだ。これを思い通りにならないことに執着(しゅうじゃく)するなというふうにいいなおせば、たとえば、私などの鬱病患者は、あるときは悶えるように心身(精神も苦しいが身体的な痛みもキツイのだ)に苦痛を感じる。これに対して「執着するな」といわれても、ちと困る。というより、それは「明らか」にマチガイだ。何故なら「執着する」は〈意識過程〉だが「苦痛」は〈自然過程〉にカテゴライズ(概念・・カテゴリー・・をふり分け)されるべきものだからだ。「執着」と「苦痛」とは、飯が食いたい(意識過程)と、腹がへった(自然過程)、のチガイがあるのだ。さらに「執着する」は述語だから、主語によって意味や関係、了解や価値がチガッテくる。だが、「苦痛」は名詞だし、「痛い」なら自動詞、他動詞、形容詞、副詞など、さまざまに変容する。「ココロが痛くなる」なら副詞的だし、「痛いココロ」なら形容詞だ。「あなたのコトバに傷ついてココロが痛い」というなら他動詞的な副詞的表現だ。まあ、こういう形式文法はとくにどうでもイイとして、私の提起するのは、あくまで「執着する」は〈意識過程〉で「述語」だということ、だ。私はこの命題を「初期設定」とする。
そこで「道諦」にこたえたものが「八正道」なのだが、(「八正道」における「正しく」というのは、後々の編纂者がカッコイイのでそう記したのだろうけど、これが錯誤のもとになっている)。「正しく」といわれると、何か「これっ」という答がありそうな気がするからだ。ところが、そんな答はナイ。そんな答はナイと、釈迦はまさにそこを悟った(目覚めた)のだ。では「正しく」と後に記された、釈迦の説いた「その苦しみを軽減させてつくる理想」とはナンなのか。

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