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2015年4月 9日 (木)

And in the End①

これは「釈迦の思想について」を改題した「百億の日常と千億の無常」をさらに止揚改題したものだ。(てなことにしておく)
この英語の和訳を私なりに意訳すると「つまりはそういうこと」(てなことになる)
仏教(釈迦の思想)を学んでいると、現世(現実というのはちとチガウのだが)というものが、次第にどうでもよくなってくる。これは、厭世というのではナイ。そうなると、単なるnihilismに過ぎなくなる。語弊をおそれずにいってしまうと、「現世なんかどうでもイイくらいにオモシロクなってくる」という感じだ。それくらいに釈迦の思想したことは愉快なのだ。深更、独りでグラスなど傾けながら、内なる釈迦と語り合うのは、至福のひとときになってくる。
私は仏教徒ではナイし、信者ではナイ。では仏教学徒かというと、それでもイイのだが、仏教哲学を学んでいるワケではナイ。釈迦の思想においては在家の修行人(これでも菩薩であることにかわりはナイんだけど)ともいえるから、「徒」という漢字は充当出来ない。なぜなら、旁(つくり、主に漢字の右半分)が「走」だからだ。こちとらは荒野をリヤカー牽いて歩いているのだから「歩」になる。人偏に歩むという漢字があればちょうどイイのだけど、そんなのはみたことないしな。
私の人生の顛末は、『寿歌』でほぼ予言させているから、この数十年、そのように生きてきた。で、And in the End.になるだろう。在家の修行人、私の渡世としては、そんなところの呼称でイイんじゃナイかな。
いっとき真面目に出家でもしようかという気になって、その手のホンを買ったことがあったが、1ページも開いていないのは、縁がなかったんだな。というか、出家などして、偉いクソ坊主や、通俗的(教条的)な聖人の配下になるのは、まったく私の資質、性格、ひねくれ根性、反抗、疾病と相容れないので、やめて良かった。
三人目の嫁は大阪で独り、私を愛したり憎んだり、悦んだり、悲しんだりと忙しい。嫁、女房、奥様というものは、あるときは邪魔くさくなったり、頼もしく思ったり、ほったらかしたり、感謝したり、心配したり心配かけたり、と、たぶん、たいていの亭主、だんな、夫というのは、この「不二」の思いの中にいるもんだ。男と女の関係は、御籤で「凶」や「大吉」を引くよりも、「末吉」「吉」あたりでイイんじゃないの。
And in the End.来世があるなどとは思ってないが、現世(現実という意味ではナイのよ)なんて、固執するほどのもんじゃナイよ。「生病老死」の「生」は、広義には「生きること、つまりは人生」のことと解してもイイが、ほんらいは「生まれてきたこと」を意味する、四苦八苦の筆頭で、なるほど、生まれてさへこなければ良かったことはいっぱいあるもんな。しかし、仏教(釈迦の思想、その法)は、私の学んだ限りにおいては「希望への道標」だ。けして「厭世や虚無の哲学」ではナイ。釈迦の法を、ひろさちや老師は「幸福への指標」とされているが、それもマチガイではナイ。そこは表現のチガイ程度のものだ。
では、take it easy easy.に、修行人、荒野を歩くことにする。
「どこへいっても、どこでもないし、あっちはどっや」(『寿歌』より)

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