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2015年4月19日 (日)

And in the End⑥

時系列は無視しているので、ここで、シッダールタが菩提樹の下の禅定で「悟り」を開いたところ、その時まで遡る。
ところで、そもそも「悟り」というのは何なのか。それについてちょっと素人(これは未体験者という意味も含んでいると思ってもらってイイ)なりに述べてみると、
たとえば私たちは「孤独」というものについて説明(解説)するとき、それを〈状態〉としていうのか〈状況〉としていうのか、あるいは〈認識〉としていうのか、まるでカント哲学のような御託をいうワケではナイが、「概念-category」「意味-meaning」「価値-worth」の何で述べるかで、「それ自体」の〈内容〉が変わる。「孤独感」であれば一種の感覚だから感性の部類になることは歴然としているが、状況的に「孤独」だというのならば、「たった独りだ」という副詞的とでもいえばイイようなものになる。「たった独りの闘い」てなふうに、その心情をいうとワカリヤスイかも知れない。これを対他的に捉えて、他のひとの中にいて独りだ、から、他のひとがいなくても「たった独りだ」と〈認識〉するのなら、対自的だ。「孤高」というふうにこれを上向きに変容させてみると、それがもっとよくワカル。他にひとがいようが、いまいが「たった独りだ」と「孤高に」に〈認識〉するのなら、これは感性というよりも「理性」の範疇になる。それはつまり「孤独」というものを状況や状態や認識ではなく〈表現〉として述べているからで、そうなると「孤独」「孤高」は「価値-worth」としてもイイ。
では「悟り」というものは〈状態〉なのか〈状況〉なのか、あるいは〈認識〉なのか。また、「概念-category」「意味-meaning」「価値-worth」の何れなのか。
そのまえに、とりあえず、いつもお世話になってる(銭払ってるけど)「Wikipedia」さんから抜き書きしてみる。すると「サンスクリットでは日本の仏教用語として多用される動詞の「悟る」、もしくはその連用形である「悟り」に相応する単語は存在しない」とあり、さらに「漢訳も対応しきれなかった」とあり、「日本の仏教で多用される「悟る」もしくはその連用形「悟り」という、曖昧かつ自動詞的な意味で用いられていることはまずない」とあり、「日本の仏教では、何故「悟る」や「悟り」という言葉が多用されるようになったのか、それは中国の禅宗が「悟」という用語を多用したことが要因の一つとして推定される」とある。で、信者の率直な質問に対し、応じて答えた、かの法華経の巨大檀家組織の偉いひとのオコトバもついでにあげてとくと(長いので端的に記す)「煩悩こそ悟りなんです」ときた。まあエエでしょう。そういうことはいろんな宗派のいろんなひとがいってる。前述した禅宗の一休禅師などは「悟ったものなど誰もおらぬ、釈迦も達磨も悟ってなどおらぬ」と、恋人の森女(しんじょ、旅芸人)が家出して「私がいては修行の妨げになると思いましたから」というコトバに一喝している(『一休伝』水上勉)。「悟りのための修行より、おまえとのオメコのほうがエエ」ともいってる(ような気がするけど、たぶん、いってるヨ)。
閑話休題。さて、では、このなんやワカラン、いろいろとああだこうだといわれているものに対して、消去法的に考えてみる。「孤独」のときに用いたように、一種の感覚=感性ではナイ。もちろん「悟ったみたいな気分」と副詞的に用いることは出来るが、あくまでそれは修飾としての用い方だ。対他的とするなら「オレなんか悟ってるほうだぜ」という比較に近い、これも修飾の一種だ。対自的な〈認識〉なら、「理性」の範疇になる。「概念-category」として腑分け出来ることが可能なのかどうか、と考察すると、けして先験的なものではナイが、悟性(経験則)で得られるような類でもナイ。つまり、「概念-category」と呼べるようなものではナイ。「意味-meaning」とするなら「悟りとは悟ること」てな自同律(「AはAである」)の循環を抜け出せそうにナイ。単純に右辺の「いい方」が変わるだけ、「いい換え」にしかならないということだ。もちろん、述語として考えるなら、こんどは左辺が変わるだけになる。
ではもう少し迫り方を変えてみよう。「悟り」、それは「現実」に存在するものなのか。という一手。つまり、よくいわれる「悟りを得る」というふうに述べると、「悟り」というもの「それ自体」が存在しなければならないが、そんなもの「意識」と同じで、これがそうです、と手に乗せてみせられるシロモノではナイ。そうすると「悟り」というものは、どこかに存在するものとして存在するもの、ではナイ、ということくらいは見当がつく。従って「悟りを得る」というのは、何か「それ自体」を外部から得るのではなく、自身が何かに〈到達〉することを示していると解したほうがイイ。つまり、「悟り(る)」は、歴然とした「自動詞」だ。この〈到達〉は、場所、地点ではナイ(空間的なものではナイ)。でナイならば、この〈到達〉は、むしろ時間的なものに含まれるんじゃないかと、目星くらいはつく。そうすると論理的帰着として、自分自身が自分自身に、ということになる。自分自身はどうしたって自分自身なので、自分自身が自分自身ではナイところから自分自身になっちゃうんだから、おそらく時間的なものが空間性に変容するところにミソがありそうだ。ミソがあるなら、ドやレもファもラやシもあるにチガイナイ。これをたとえでいうと、いままで「眠っていた自分」が「目を醒ました自分」になることだといえばどうか。おそらく「悟り」というものは、そういうふうに「自分が目覚める」ことだといって、そう遠くはナイ。(えらく巡り巡って、持って回って、ごたごた述べたくせに、そんなことアタリマエではナイか、と、教条仏教者の声がするが、そういうのをコロンブスの卵というのだ)。
ともかく、言語化不可能なもの(釈迦もまた、梵天に「語り得ない」と答えている)。というシロモノを、私たちのようなコトバをウリにしているものは、そういうウィトゲンシュタインふうな言語限界に甘んじてはいられない。だから、たとえそれが近似的だろうと、言語化する努力くらいはしてみたのだ。
ここから、やっと、本筋に入っていける。

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