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2015年4月20日 (月)

And in the End⑦

「デタラメではナイのか」と、ふと、いや、ハッと目覚めたように釈迦(シッダールタ)は目を開けた。いわゆる「悟り」の瞬間は、こんな感じだったと推測される。やや冷静になってみて、そんなはずはナイとも思ったが、その「答え」が、もっとも正しいように思えた。「世界、宇宙、その因縁の運動は〈デタラメ〉ではナイのか」物事の現象には、原因があり、さまざまな縁があり、それが織物のようになって結果をもたらす。そこには、「何か秩序があるはずだ」「宇宙には真理があって然るべきだ」という、思い込みがコペルニクス的に引っくり返った。「真理が混沌そのものだ」などとは、思いもしなかった。再度、釈迦は確認するように沈考した。「あるいは」と頭上の菩提樹をみあげ、今日、この木の枯れ葉が何枚散って落ちるかということなど、決まっているワケはナイ。つまり「何も、決まっていることなどはナイ」。しかし、幾枚かは落ちるということは確実なことだ。それだけが決まっている。この「決まっている」ことと「決まっていない」ことが、どれだけ「決まっている」かということもまた「決まっていない」。それにいちいち煩っていても、仕方がない。つまりどうしようもナイ。で、あるならば、どうすればイイ。「在るがまま、成るがまま」の渦中に自身は在るしかナイ。では、そんな存在(自身)に「出来る」こととは、何なのか。放埒、自棄というものでもナイ。自在でも、確信でもナイ。「苦-無明」からの解脱は不可能なのか。いや、そうではナイのだ。と、ここが閃きなのだが、「そうかっ、そうなのか。そうなんだ。そんなことか」と釈迦は笑った。「アキラメがつく、ということか」。この場合の「アキラメ」は「諦め」ではナイ。「明きらめ」というふうな意味合いだ。つまり「明らかになる」ということだが、それはもちろん「無明からの解脱(解き、脱けだす)」という意味合いからきている。いいなおせば「苦しみの根源の、明らかでない(無明)ものから解き放たれて脱した」ということだ。「悟り」とは、おそらく、そのようなところから出発した。出発したというのは、スタートしたということだ。だから、どんなゴールに辿り着くかは、ワカラナイ。あくまで悟りとはスタートなのだ。そうして、すべては道程に過ぎないが、辿る道筋はマチガッテはいない。何故なら「明らか」なのだから。「宇宙は混沌を常としている。しかし、静止、停止しているのではナイ。たえずゆらいで動いている。それが縁というものだ。その縁が運動の結果として、ある秩序を現象させる。それは偶然にではあるが、偶然ではナイ。いわば必然的に偶然なのだ。それはあくまで現象であるから、また消えてなくなるものだ。(これはおそらく〈空〉の思想に関連づけられる)。ほんとうは、そのように宇宙は存在する。人間がそれを知り得ないのは、それが「デタラメ」だからだ。」この「デタラメから生じる秩序」が後に「燈明」と称されるものとなった。つまり、「自燈明、法燈明」において、「自」や「法」よりも重点が置かれるべきは「燈明」そのもののほうだ。「法燈明」は、〈デタラメ〉の宇宙の運動だが、「燈明」こそは「確かな明かり」だ。そうしてそれはそれぞれの者が、それぞれの観方をするだろう。それを「自燈明」としよう。そうすると、なんだかてんでバラバラにそれは存在するように印象されるが、しかし、この根本原理の(「デタラメから生じる秩序」)さへ自覚できていれば、そのものたちが観る「確かな明かり=燈明」は、根本原理としては同じはずだ。釈迦はこうして「目覚めた」。
てなふうに、あたしゃ虚構したのだが、これをかつての五人の修行僧に説法しても、まず笑い飛ばされるだけだ。修行は宇宙の絶対真理を求めている。その真理が「デタラメから生じる秩序」てなふうに説けるワケがナイ。では、どうしろというのだ、どう生きろというのだ、と、逆に疑義質問されても、答えようはナイ。では、どうするか。どう説法すればイイのか。

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