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2015年4月13日 (月)

And in the End④

嫁さんが親不知で、私は「口腔外科」に行ったほうがイイと勧めたのでそうした。CTスキャンを撮った。ふつう開業医はそんなことはしない。口腔外科といのは、ほんらいは口腔の腫瘍(癌)手術を専門にしているのだが、親不知の手術もする。私の知る限り(私は二本抜いたのだが)抜歯のアト縫合してくれたのは口腔外科だけだ。しかも、ふつうの歯科医だと、行ったその日に抜歯ということになるが、口腔外科では、3~4回通った。抜糸をいれるともう一回ということになる。つまり、かなり慎重で丁寧なのだ。また外科医だから手術も上手い。抜歯手術のとき、まったく痛みを感じなかったし、出血も殆どなかった。ところで、嫁さんの親不知は、ちょっとひねくれた生えかたをしているので、CTスキャンの結果をみなければワカラナイが、手術にはリスクが伴うということを説明された。抜くか抜かぬかは嫁さんが決めねばならないが、抜くとなると、術後に確率的に良くないナンカがあるらしい。それもスキャンの結果をみなければワカラナイ。しかし、抜かないとなると、三ヶ月に一度くらいは腫れて痛むので、また、抗生剤と鎮痛剤のお世話にならねばならない。要するに歯は成長するから、抜きやすい(リスクのナイ)ところまで待たねばならない。とはいえ、痛みはそれまで我慢しなければならない。
「我慢してはイケナイ」とはよく聞くが、このコトバ一つとっても、こういう諫言のコトバは難しいものだ。たとえば、最近のことだが、とある知己の比丘尼(出家している女性のこと)が、私とのメールのやりとりで、「執着(しゅうじゃく)してはいけない」てなことを諫言してきた。たしかにそのとおりで、「苦」というものは「執着することから始まる」のは、釈迦の「初転法輪」で述べられている。(釈迦は五人のむかしの修行仲間に「四諦(したい)」「八正道(はっしょうどう)」「十二縁起」を最初の説法として説いたとされている。これを初転法輪という)。
ところで、岩本裕老師は『仏教入門』(中公新書)の中で「八正道」について、こう述べられている。「ここに八項目の実践を列挙していることは、これまた当時のバラモンに見られる分類癖あるいは列挙主義にならったものものといえよう」よって、「釈迦とて時代の子であった」というワケだが、なるほど、釈迦とて時代の子だったことに異論はナイ。「生・病・老・死」という四苦にしても、生や死についてはいまも変わらぬことだが、「病気」と「老化」については、当時のインドと現代とでは、かなり事情がチガッテいる。その点においては「時代の子」であってもしょうがナイ。ただ、岩本老師のおっしゃるように、釈迦がそのように、分類、列挙して、説法したということについて、私はずうう~っと、疑問に思ってきた。「腑に落ちなかった」のだ。何が「腑に落ちない」のか。それは具体的にどうこうではなく、「釈迦が、そんなふうにいうのはオカシイ」とだけ、思ってきたのだ。なんで、オカシイのか。まず、整理され過ぎている。ここがウソ臭い。さらにこれは、対機説法でも応病与薬でもナイ。まるで「修行僧の道徳の時間の教義」のようで、さらに胡散臭い。ウソ臭いも胡散臭いも、「臭い」という「嗅ぎ分け」だが、だいたい人間の嗅覚というのは、「観分け」と連動して、ものの善し悪しを「分ける」のだ。
で、最近やっとワカッタのだが、この「四・八・十二」の分類、列挙というのは、釈迦入滅後、数百年を経て、小乗仏教の経典の作者が、そういうふうにお経(経典)に書きまとめたものなのだ。釈迦は「初転法輪」において「四・八・十二」みたいなふうに、自身の悟りを述べたりしてはいない。
とはいえ、「苦」は「執着する」ことから起こるというようなことは説法したろう。しかし、コトバというのは必ず矛盾を孕んでいる。「執着してはいけない」ということを目指して修行するということは、「執着してはいけない」ということに「執着する」ことになる。それにや、なんぼ、執着せんとこと思うても、我慢せんとこと思うても、親不知は痛いのや。痛いもんは痛い。凡人だろうが、偉い聖人だろうが、大阿闍梨だろうが、親不知の痛さにかわりはナイ。痛いもんは痛いに決まってるやんけ。
と、そう思うことのほうが、「正しくみること」「正しく考えること」(八正道の一と二だ)ではナイのか。そこで、私はナイ智慧をしぼって考えて、その比丘尼にメールを返信した。「執着する、というのは〈述語〉です。大事なのは主語ではナイでしょうか。何に〈執着する〉のが正しくナイのかをいわねば、「執着してはいけない」といコトバは何の意味もありません」。
いま、ここに重病人がいるとする。苦しんでいるんだ。そうしたら、医者は徹底的にその病人を治療することに「執着すべき」だ。つまり、八正道において、大事なのは、執着を棄てる修行ではなくて、何が「正しく」なのかを修行することだ。ちゃうんか。痛いもんは痛い。鬱病は精神的に弱いメンタルなひとが罹病する病気ではナイ。(極論、ではあるが)脳内物質の分泌が乱れることによって生ずる、耐えがたい身体的苦痛のある疾病なのだ。ここんとこを世間のひとはマチガッテまへんか。

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