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2015年3月23日 (月)

百億の日常と千億の無常・・「釈迦の思想について」(改題)

修行とはナニカという問いの、大雑把で俗っぽい答だが、前述した「修行は苦(仏教でいう苦とは思い通りにならないこと)からの解脱です」というのがある。この「思い通りにはならないこと」というのを、スコップ一杯、掘り起こしてみる。「金持ちになりたい」「美人になりたい」・・・こういうのは、たしかに思い通りにならないことのほうが多い。「宝くじの一等に当たりたい」、ここまでくると、思い通りなど神頼みでも実現不可能に近い。で、仏教の説話にならって、たとえ話でもしてみる。
外国の話になってるが、日本でもイイ。ある小さなパン屋があった。まだ少女と呼んでも差し支えない若い女性店員がいた。毎日、そのパン屋に、パンの耳を買いに来る青年がいた。みるからに貧乏そうな風体で、痩せて、不健康そうな様相だった。「きっと、まともな食事もしていないんだわ」、少女は憐れに思い、せめてにと、ある日、青年が買ったパンに内緒でバターをぬってあげた。少しでも栄養をつけなくっちゃね。少女の良心、思いやりだ。その数時間後。青年が、おそろしく激しい調子で表のドアを開け、睨むような形相で、少女にこういった。「何てことをしてくれたんだ。どうしてバターをぬった。きみのおかげで、ボクのカンバスは台無しになってしまった」そういと、青年は今度は、へこたれた様子で首を垂れた。彼は画家を目指して修業している最中で、パンの耳は、カンバスの消しゴムの代わりに使う用途で用いていたのだ。それは画家のあいだでは常識だったが、あいにく、少女にはそんなことは見当もつかない。少女はただ悲しかった。
「思い通りにはならないこと」というのは、スコップ一杯掘って考えるに、「良かれと思ってしたことが仇になる」ということだ。
この逸話を読んだとき、我が身を思った。「良かれと思ってしたことが仇になる」。私が六十余年生きて成してきたことの多くがそれなんだよナ。「無常」というのは、時の流れだけをいうのではナイ。「常態」ではナイ状況もまた、無常なのだ。これを「業(今日では、一般的にこの語を使う場合は、(因縁・因果による)行為で生じる罪悪を意味したり(例えば「業が深い」)宿命的な行為という意味で使ったりすることが多い」などという説法にに私は与しない。だいたい、因縁と因果では意味がチガウ。因縁は「因」と「縁」の合成語だし、因果は原因とその結果からどんな結果にも原因があるというものだ。因果律は、物理学的には、ラプラスの悪魔と同義だが、これは量子力学で否定されている。では、因縁というのは、たとえば(ほんとにたとえ話が多くて困惑するが)「因」というのは自分が男か、女か、という、カント哲学の概念においては先験的なcategoryだと思っておけばイイ。「縁」は「関係」だ。従って、「因」より「縁」のほうが数多くある。世間てのは、この関係の錯綜だといってもイイ。
私は「現実」と「虚構」との関係を理論化はした(『恋愛的演劇論』)。現在は、この「関係」てのを追って探求している力学系が『カオス理論』だろう。(だろうというのは、この辺りはしっかり勉強していないので)。この理論でpopularなのは「ブラジルで1匹の蝶がはばたくとテキサスで竜巻が起こる」という初期値設定の鋭敏なこと(ここではそれは「因」に該るが)と、観測精度の限界(これが「縁」だ)を述べている。(ちなみに量子力学の「不確定性原理」は観測精度は一切問題にならない。観測とは無関係の本質的なものだ)。つまり微分方程式によって運動が決定出来ないということだ。これは確率論でもナイらしい(と、勉強不足だから、らしいとしかいえない、残念)。
「思い通りにはならない」ことはエビデンスが在るのだ。だから、それを「苦」にしてもどうしようもナイ。というか、「苦」にやむ必要など何もナイ。よって、修行したからといって解脱(解放と離脱の合成語)出来るものなどではナイ。では、釈迦はそこんとこをどう考えたのだろう。

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