百億の日常と千億の無常④
国会で、某、元女優議員が「八紘一宇」というコトバを発したことが、マスコミの話題になった。こういう言葉尻を捉えるのって、好きだよなマスコミ。けど、そりゃあ、マスコミのほんとうの仕事ではないんじゃねえの。各マスコミ関係、関連に訊ねたいのは、目下のところ、「あんたら、沖縄県の味方、政府の味方っ、んっ」だ。
仏教を勉強しなおしてみると、当然のことなのだろうが、宮沢賢治の方向にベクトルが向かう。賢治は法華だったから、『法華経』は読んでいたにチガイナイが(というより、法華経の作者は賢治自身だというのが、私の虚構だが)、当時のさまざまな経典にも目を通しているはずだ。賢治のことだからネ。では、賢治は『般若心経』をどう読んだのだろうか。おそらく殆ど興味を持たなかったと思う。賢治にとっては「色即是空」など、なんの意味も持たなかった。いいかえれば、「それが空であろうが、なかろうが」どうでもイイことだったと思われる。賢治にとっては、仏教とは、目前の現実(情況)と、それを変革するための指針でなければならなかった。「空」がどうだこうだより、むしろ「八紘一宇」というsloganにココロひかれていたにチガイナイ。「八紘」とは「世界」を意味する。そうして「一宇」は「一つ屋根の下」とでもいえばイイ。
鈴木安蔵(マルクス主義憲法学者)は『政治・文化の新理念』(利根書房)で「今日占領しつつある諸地方に限らず、今後、全東亜は言うまでもなく、八紘為宇の大理想が今や単なる目標ではなくして、その実現の前夜にある…東亜共栄圏と言い、八紘為宇と言うのは、わが指導権の範囲が一億同胞にとどまらず、全東亜、いな全世界におよぼすべき目標と使命と有する…」と記している。しかしながら、
蓑田胸喜(反共思想家)も「学術維新」(昭和16)で「肇国の始めより『いつくしみ』『八紘為宇』の人道的精神を含蓄する日本精神は其世界文化史的使命に於いて、単に欧州的地方文化に制約された『民族主義だけの民族主義』を原理としてチェコ合併やポーランド分割の如きによって、直ちにその『一民族・一国家・一指導者』の国家原理に思想的破綻を来す如きナチス精神とは比倫を絶するものである。個人が人倫道徳に於いて超個人性を具現すべきが如く、民族国家も亦その思想精神に超民族性超国家性を含蓄啓示せねばならぬ」と述べている。共産主義者、反共主義者ともに、共鳴はしているワケだ。
無頼派と呼ばれた作家の坂口安吾は『安吾巷談-野坂中尉と中西伍長-』(昭和25年)文藝春秋第3号で、「私は日本映画社というところの嘱託をしていたが、そこの人たちは、軍人よりも好戦的で、八紘一宇的だとしか思われなかった。ところが、敗戦と同時に、サッと共産党的に塗り変ったハシリの一つがこの会社だから、笑わせるのである。今日出海を殴った新聞記者も、案外、今ごろは共産党かも知れないが、それはそれでいいだろうと私は思う。我々庶民が時流に動くのは自然で、いつまでも八紘一宇の方がどうかしている。八紘一宇というバカげた神話にくらべれば、マルクス・レーニン主義がズッと理にかなっているのは当然で、こういう素朴な転向の素地も軍部がつくっておいたようなものだ。シベリヤで、八紘一宇のバカ話から、マルクス・レーニン主義へすり替った彼らは、むしろ素直だと云っていゝだろう」と書く。
賢治もまた夢みたにチガイナイ「八紘一宇」だが、それは『農民芸術概論綱要』においても「永久の未完成これ完成である」と、「永久革命論」へ移行していく。この辺りは、仏教思想の菩薩行が強く出ているところだ。(ただし、賢治は農民を読み違えている、ということについては以前、書いたことがある。そのため、彼の主要詩集『春と修羅』は次第に暗澹たるものに変容していかざるを得ないことになった)
仏教(釈迦入滅後)は、さまざまな浄土を虚構し、この世を穢土としたが、そうして、この世が穢土であることについて理由づけ(ちと、我田引水のご都合主義だが)をしているが、大穢土八百八町を嘆いてもしょうがナイ。行者が何千日修行することも好き好きだと否定はしないが、末期ガン患者が、朝目覚めて、死なずにすんだ、今日も一日、とにかく生きよう。とする意思、姿勢は、修行一劫年に匹敵するはずだ。
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