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2015年3月20日 (金)

(幕間)「人生の80%は錯覚である」

「人生の80%は錯覚である」、そういったのは、近年他界されたあの名優、高倉健さんだ。健さんと「人生の80%は錯覚である」は、ナンダか結びつかないなあ、と思われる方も多いだろう。健さんほど、迷妄なく自分の信ずるところにおいて、輪郭のはっきりした生き方をしたひとはいないような気がするからだ。
健さんの座右の銘は『行く道は精進にして忍びて終わり悔いなし』だとされている。これは、健さんが尊敬してやまなかった、酒井雄哉さん(天台宗の僧侶で比叡山延暦寺の千日回峰行を2度満行した行者として知られている。天台宗北嶺大行満、大阿闍梨にして、大僧正、比叡山一山 飯室不動堂長寿院住職を務める。ラーメン屋、鉄工所など様々な職を転々として39歳の時に仏教修行に入る。 2013年(平成25年)9月23日87歳で没)のコトバだ。
私は千日行の意義などまるで、眼中にナイものだが(というか、よくも、そんなつまらんことを二回もやったなと呆れる側の、いうなれば修行者というひとびとからは総攻撃をくらうような人間だけど、私の後ろで酒井大阿闍梨が大笑いされてるから、いいんじゃないのかな、ということにしておく)、この大阿闍梨のことは、健さんは次回作の映画として撮りたかったことは聞いている。ここで、ちょっと大阿闍梨、酒井雄哉さんの残した「名言」というのを適当に羅列してみる。
/一歩ふみだすために どうしたらいいかって? どうしようかと思うこと自体が おかしいんだよ。 やりたいことがあるなら やればいい。/
/「失敗したらどうしよう」 なんて、やる気がないから そういうことを考えるんだ。 最初からうまくいくわけが ないんだよ。 失敗を繰り返しながら 続けていくものなんだから/
/今の人たちは 利口すぎるんだよな。 子どもの時から 一生懸命勉強をして、 頭の中が知識で満タンになってる。 問題はなんのために 勉強するかってことだよ/
/余計なことを考えず、 今、目の前にあることを 一生懸命やるという気持ちだけを もっていればいい。 そしてひとつ道を見つけたら、 生涯それで生きていくと決める。 腹をくくっていれば 動揺したり迷ったりすることはない/
/今までこれだというものを 見つけられなかった人は、 今からでも「これをやろう」と決めて進んでいけばいい。 大事なのは年齢じゃなくて、 決めたことをやり続けること//今日の自分は今日でおしまい。 明日の自分は 今日の自分とは違うんだ。 「一日が一生だ」と 僕は言うんだけれど、 どんなときも一日一日を 真剣に生きていくしかないんだよ/
どれも優れたコトバだと思う。思うけど、玉石混淆で、この程度のことは、書店の適当な人生訓本にも似たようなことは山ほど書かれてあるし、テレビのコメンティーターでもいいそうなコトバだ。(と、こういうことを書く、あるいはいうと、大阿闍梨はほんとうはもっと高邁な真理を悟っているのだが、無学蒙昧な衆生のためにあえて、平明で、ありふれたコトバで語ってらっしゃるだけなんです、という半畳が入る)。健さんは大阿闍梨に何度かお逢いして、話し込んだりしたから、その真理のほうをいろいろと聞いたのかも知れない。そうでもナイのかも知れない。とはいえ「人生の80%は錯覚である」は、大阿闍梨酒井雄哉さんとの対話や、日本全国のさまざまな土地、さらに世界のあちこちを(ある時は壇一雄のアトを追うようにして)歩き回った健さんの、偽らざる世界観、人生観にチガイナイ。
ちょっとオモシロイscene(あるいはsequence)を妄想してみよう。殴り込みをかけた健さんが、諸肌脱いで、唐獅子牡丹も鮮やかに、ドスをかざし、悪行深い仇方の親分に、死んでもらうぜというかわりに「人生の80%は錯覚なんだぜ」と啖呵をきったら、斬られる側の親分は、「えっ、ええっっ」と、ナニガなんだか、目ん玉ひんむいて、もんどりうつだろう。そんな映画は『網走番外地』シリーズのの石井輝男監督くらいしか撮らないだろうけど、ネ。

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