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2015年3月28日 (土)

百億の日常と千億の無常⑤

大乗仏教の名経典、とりわけ「空」論の名著といわれている『維摩経』の読みどころは、「空論」も、さることながら「不二の法門」だと思われる。「不二の法門」とは、「本来、二つにしてはいけないこと(分けてはいけないこと)を分別して考えるのはマチガイだ」てなことなんだけど、これは、一休宗純の解題した『般若心経』にも似たようなことが述べられている。ちなみに、そこで、一休は「仏と自分を分けてはイケナイ」と説いているのだが、これは「仏とは、自分と別世界にいるのではなく、自分の中に在るものだ」という論法だ。
ところで、『維摩経』は、大乗仏教経典において、たしかにすぐれたものだと読んだが、その欠点として挙げることが出来るならば、最高綱領であるはずの「不二の法門」を説きながら、「穢土」と「浄土」という「非・ 不二」を設定してしまったことだ。何故、衆生世界、つまり現世が穢土であるのかは、菩薩の修行の必要条件として説明されているが、そうなると、穢土と浄土は、単なる便宜上ではあるにせよ「不二」ではなくなってしまうことになる。
三十一人の菩薩たちが、「不二」についてそれぞれの見解を述べるくだりがあるが、「穢土と浄土を不二と為す」とは、誰一人述べていない。穢土というものがあり、浄土というものがあるということは説かれているのだが、それでは「不二」ではナイ。そこで、私たちは、穢土と浄土について、その「不二」について考えなければならなくなってくる。これは、『維摩経』を離脱する営為に成りかねないが、やらねば仕方がない。
「穢土に浄土あり」とはいえる。論理としては超越論理でも形式論理でもそういえる。弁証法としてもそういえる。カント・カテゴリーにおいても可能だろう。しかし、「浄土に穢土あり」というのは、集合論としてしかいえないことだ(穢土⊆浄土・・・かな、集合論はあまり詳しくナイのだが、穢土は浄土の部分集合、もしくは、等しい)。つまり穢土というのは、浄土の一部ですよということなのだが、「不二の法門」においては、それは通用しない。「不二の法門」は集合論で捉えるものではナイ。たしかにこれだと論理的には「分けてはいけない」ので分けてはいないのだから、それでイイように眩まされるが、「不二の法門」は、そういう「法」=「経」ではナイ。これを認めると、「不二の法門」は、単純な集合論に化してしまう。誤謬をおそれずにいってみれば共存だ。従って「不二の法門」の「不二」を共存だといってしまえば、それですむことなのだが、私はあくまで、ここは「対立物の相互浸透」として「不二」を設定しないかぎり、『維摩経』としての特異な法門にはならない気がする。三十一人の菩薩たちの述べていることは、集合論の超越的展開ではなく、対立物は矛盾しないという超越的展開だからだ。そうすると「不二の法門」をいうならば、「浄土も穢土も、空である」という「空論」に持ち込むしかナイ。これは『維摩経』の真髄としてはアタリマエの結論なのだが、それをいってしまうと、ドラマツルギーが破綻をきたす。つまり、劇作家の視点からいえば、『維摩経』という戯曲は、浄土と穢土を持ち出したことによって(たとえそれが、大きな譬えであっても)、三幕十四場の戯曲としては、大風呂敷に過ぎて、ここだけは失敗しているといえなくもナイのだ。この発想は『維摩経』の作者の油断、書き過ぎ、勇み足、蛇足、馬脚、としかいいようがナイ。菩薩の修行の場として穢土を設定したのなら、衆生からはエライ迷惑な話で、ここだけは大乗が小乗に引っくり返ってしまっている。わざわざ「修行の場」などを設けたというところにおいて、そうなる。大乗においては、そのような特殊な(小乗に在るような)「修行の場」は存在しないのが前提だ。何故、世界が穢土なのか、それは方便だとするなら、方便というより詭弁に近い。「浄土も穢土も、空である」などともっともらしいことは、べつにいわなくてもイイことで、単に「浄土や穢土というものはナイ」といい切ったほうが、潔かった。しかし、そうすると『維摩経』は解体してしまうんだけどナ。「空」の本質は「ナイ」ということではナイからニャ。いまんところ、ここは瑕だなあ。

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