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2015年3月25日 (水)

百億の日常と千億の無常③

「無常」というコトバと似たように用いられる仏教用語に「空」というのがある。あくまで似たようにだから、概念、意味、価値、としてカテゴライズすれば、チガッテはくるのだが、ここはまあ、似たようなで進めていくことにする。方便として。(方便というのは「嘘も方便」というような稚拙に使われるコトバではなく、仏教語としては、真理に向かう道程ということになってんの)。
私はかつて「すべてが空なら『般若心経』も空ではナイのか、それは矛盾だろう」とブログで述べたことがあるが、ここは、ちょいとマチガイを認めて訂正する。
「空」の本質については、後述にゆずるとして、「般若心経は空である」ということはいえるのだが(何故なら色即是空であって、般若心経も「色」なのだから)、それを突き詰めて「空も空である」「空は空である」とはいえない。これは、形式論理や超越論理などの問題ではなく、単純な数式における「等号→=、イコール」の用い方、ひいては認識の誤りからきている。「空は空である」は「空=空」(『維摩経』)と記せるのだが、これは「なにもいっていないことに等しい」、つまり、自同律(伝統的には〈AはAである〉という形の命題を意味するが,現在では,命題pに対して〈pならば,p〉の形で表現されることが多い・・・『世界大百科事典』より)になる、自同律は哲学用語なので、くだいていえば循環論だ。チガウふうにいえば、「写像(の形態)を写像することは出来ない」(f→fn)という写像は出来るが、(f→fn)→(f→fn)という写像は出来ない。
もう少し解説する。
「等号→ =」というものにも、ちゃんと定義(ルール)があるのだ。幾つあるかつうと、これが10もある。一つひとつは面倒だから、簡単で必要なものだけをいう。
①3+2=5       
②5=3+2
この①と②の等式は、計算上はどこにもマチガイはナイ。しかし、①は納得出来るとして、②のちょっと変だぞは、すぐにワカル。だって5=4+1だっていえるワケだから、この「5」というのを命題に置き換えれば、同じ命題についてチガウ論理展開を「等しい・同じだ」といっていることになる。もっとワカリヤスクいえば、①は3人の男と2人の女性がいて、みんなで5人といっているのだが、②はみんなで5人とは、男3人と女2人のことであるといっていることになる。オカシイ。男4人と女1人でも、みんなで5人だからだ。これは数の「量的」なものと「質的」なものを文字通り勘定に入れていないから起こってくるマチガイなのだ。(ここからは「集合論」になるので、これ以上は勘弁ね)。
このように「等号」の用い方から考えれば、「般若心経=空」とはいえても、「空=空」は、マチガイというより、「なにもいっていないのと同じ」なのだ。
では「無常もまた空である」はどうか。「無常=空」だ。これは、マチガイではナイ。この「無常=空」を翻訳すれば「無常というものも、あるようでナイ、ナイようである」ということになる。えらく曖昧だなと思うなら、「無常は在るが、ナイ。ナイが在る。なぜなら空だからだ」とまで翻訳すればイイ。
仏教の経典は、超越論理(非アリストテレス論理)が多いけれど、数学だって同じくらい非アリストテレス論理が多いのだ。「無限を数える」なんてことも数学はヤルるんだからナ。

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