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2015年2月25日 (水)

『うちやまつり』とはなにか③

「いつ、やるの」~「そのうちや」。「誰や、」~「うちや」。「これも芝居のうちや」。てな調子で「うちや」の意味を「誤読」しながら探っていくのもオモシロイ。『うちやまつり』とは「うちやまくんが、つりに行く話です」という、岸田受賞パーティーでの私のジョークは、伝説になっているらしいが(ホントかよ)、それでも一向に差し支えない。戯曲の文脈には副っていると思えるから。
「うちや」を漢字で書くとどんなものが予測出来るだろうか。「内夜」「内野」「内輻」。これらは、一文字ずつの意味をつなげた造語だが、それぞれ metaphor(暗喩)、simile(直喩)、に該当可能な比喩を表しているということも出来る。たとえば「内夜」は夜の時間ともとれるし、ココロの中が夜のようだ、ともとれる。「内輻」の「輻」は「車輪の軸と外側の輪とを結ぶ、放射状に取り付けられた数多くの細長い棒」のことだから、ここから、放射状の関係と了解の内なる比喩ということも可能だ。「内野」は、環境(状況)空間を意味しているようでもあるし、内だから、その「内側」なのか(そういう特定の場所が作品の中には設えられてある)、もちろん、これもココロの中のことととってもイイはずだ。遊びだすとキリがナイので、それはこのへんにしておいて、と。何れにしても、「うちや」というコトバの触感から推測するに、作者にとって、何かが、外化(英語でいう alienation.独語でいう Entfremdung.哲学用語として、自己の対象化、疎外)のパラ位置(反対側の位置)に在るもの、とするならば、対自の仕方(自らに向けられていた問いかけ、視線)が一度「対他」し(環境や状況に転化、移行され)、それを「即自」する(自然過程として、もう一度自分)にもどす。という、けっこう巧緻な作業がなされていることになる。なんのこっちゃと、いつもいわれるので、くだいていう。いま、自分(作者自体)が眺めている状況は「ほんとう」のことなのか、「ほんとうのこと」というのは誰も語らないのではナイか、という問題の提起から始まって、「ひとを愛するためには、あるいは他者を理解するためには、どんな自分を(コトバを)必要とするのだろうか」という真摯な問いかけに作者の視線(思考)は移行していく。そこで、作者はその視線を現象学的に「還元」してしまい、というか、現象学的還元の方法論を用いて、ある「客観視線」という無人格の「視線」が在るものとして、まず世界(状況)が眺望されているものとする。そうして、その「世界視線」を自身(作者)が自分の視線でみつめてみる。という方法(ドラマツルグ)が用いられている。これは、具体的なインスパイアの何かをいい得てはいないかも知れないが、モチベーションとしては充分だと思える。
おそらくある評論は、この作品のタナトス(死)とエロス(ここでは性的なもの)を問題にするかも知れないが、作者にしてみれば「タナトス、ナンダイそりゃ、死ぬこともセックスもナンか意味あんの。どっちも自然の成り行きじゃん」てな心境だ。(つづく)

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