ノーキョー改革と水素元年
安倍ちゃんが、所信表明演説で、よくもまあというほど耳触り(本来は耳障りという否定的なコトバとして使われていたが、近年、こういう肯定的なコトバにもなった)なことを声高に述べて気炎を吐いているが、確かにノーキョー(alphabetでいおうと、脳凶と連想しようとどっちでもイイヤ)の改革は必要なことは確かなことだ。ノーキョーの農業従事者管理は「支配」にまで腐敗していることは、もううーんとむかしから囁かれているからな。私の高校時代の学友の数人は、このノーキョー職員になった。で、二十歳くらいの頃かな、同窓会で出合ったら、いってたよ。「ノーキョー職員は天国やな。ビールなんか買うたことないわ。中元、歳暮で、何から何まで届くからな。食料品から犬の餌まで、みんなタダやで。もう、ウハウハの極楽や」。別の彼のひとはいう「農業の後継者がいないというのは、みんな百姓がイヤでノーキョーに勤めるからや。田圃みたいキツイ作業なんか、アホらしくて、してられへんわ」。で、彼等はいま、悠々自適の老後に入ったが、口をそろえて「海外旅行は、もう飽きた」というのだ。
安倍ちゃんの改革で、何処までノーキョーが新しくなって、いまや工業化した農業が何処までいいふうになるのか、私にはよくワカラン。とはいえ、農民が票田だった与党が、いまや動かぬ山になっている、その影響が聖域の改革断行というカタチで生ずるのは、そう悪いことではナイ。(安倍ちゃんがいうほど上手くいくなんてことは夢にも思ってはいないに関わらずだが)。
水素元年というらしい。水素がエコなエネルギーとして本格的に市場参入してきたからだ。まったくもって理想的なエネルギー源だ。だいたい、水素というのは、視点を転じて観れば、海水からもとれるのだから、無尽蔵のエネルギーだ。
とはいえ、ボンクラな経済学者が考えるように、そう楽観はしないほうがイイ。水素エネルギーは「使用価値」は高いが、経済は使用価値が支配するものではなく、「交換価値」によって動く。石油資源を保有しているロシア、中東。シェール(ガス・オイル)で稼いでいる米国が、そんなエネルギーの世界支配を許容するワケがナイ。
日本も本気で動くのなら(それなりの予算はついているのだから)、ほんとうの人道支援で、エネルギーのナイ、貧困国の支援を含めて、水素エネルギー立国を考えるべきだ。
原発の再稼働。フクシマは人災だということを忘れてはイケナイ。原発の設計、建造は、他の如何なる建築物よりも安全であることはマチガイないのだ。そんな資料を提出されても、フクシマの後処理で死者の多く出ている現状、いまだ仮設住宅生活者のいる状況を考慮すれば、「人道的」に、安易に再稼働などというべきではナイ。
ちなみに、核融合原子力発電のエネルギーは重水素だ。太陽は核融合エネルギーだ。太陽光パネル発電のおおもとは、核融合エネルギーだということだ。
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