無料ブログはココログ

« エネルギーへの夢 | トップページ | 『うちやまつり』とはなにか② »

2015年2月21日 (土)

『うちやまつり』とはなにか①

『うちやまつり』の特異性だと思われるせりふから観ていく。この作品の戯曲(書かれたものとしての劇・リテラシーによる演劇)を「演ずる・演じられる劇・スキル)に転換、写像するのは、けっこうな困難を伴うように感じる。では、戯曲を受けて、役者の身体は具体的に何をしているのか。戯曲言語を「関係」だとすると、身体は「了解」を具現してみせていると、現在のところ暫定的にしか私にはいうことが出来ない。前者は空間性だが、後者は時間性だ。従って戯曲を読んだ場合、読者はその「空間」の度合いを感じるが、舞台を観劇した場合、その「時間」を観ることになる。
名詞と動詞(無機的)なコトバだけ発すると、ヒト(の「関係」)はデスコミュニケーションに近づくしかナイ。なぜなら、副詞的、形容詞的、感動詞的(有機的)な、あるいは日常的な助詞のある会話がなければ、ヒトは「了解」の機能を逸するからだ。
「アスペルガー症候群」の理論的誤謬は、あまりに概念認識が漠然とし過ぎているところにある。つまり、そこでコミュニケーションとされる言語(表現)が「情況」なのか「本質」なのかが曖昧なのだ。『うちやまつり』はthroughして観てしまうと、あたかもこのアスペルガー症候群の集合に入ってしまうような錯覚に陥る。
演劇では、役者は「行間を読め」といわれたり、現在では「サブテキストを使う」といわれたりするが、私は、そのようなものが存在するのかどうか、かなり疑問視している。それらは、書かれたせりふの「裏読み」「深読み」に該当するのではないかという懸念があるからだ。それじゃあ、劇作家はたまったもんじゃナイ。
私の理屈では、書かれた劇(戯曲)を演じられる劇(舞台)に写像、転換することを「台本化」すると称しているが、そのプロセスで想像変容が生じるのはアタリマエのことだ。つまり、戯曲の言語は徹頭徹尾イメージであり、役者の身体は現実だからだ。
全体の印象としてしかいえないのだが、『うちやまつり』のせりふ群は、ふつう「発語」される類のものではなく、多くが「内なる言語」を意図的に発語させている。これは、コトバをかえていえば、単に視線だけで終わるものを、言語化させているということだ。従って、この作品においてはウィトゲンシュタインの言語学など、まったく役に立たない。ソシュールの言語理論に置換するのも怪しくなってくる。(つづく)

« エネルギーへの夢 | トップページ | 『うちやまつり』とはなにか② »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/61171115

この記事へのトラックバック一覧です: 『うちやまつり』とはなにか①:

« エネルギーへの夢 | トップページ | 『うちやまつり』とはなにか② »