無料ブログはココログ

« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »

2015年2月

2015年2月26日 (木)

『うちやまつり』とはなにか④

死人に梔子の花。だから、なんだけど、『うちやまつり』受賞パーティーの日、私は作者(深津)に「教えろよ」と、訊いたのだ。タイトルの由来だ。「絶対、内緒ですよ」だったが、死人に梔子の花。そときの会話はおおよそ次のようなものだったと記憶している。

「ある地方ということにしておきましょう。ボク自身特定出来ないんです」
「その地方の方言、隠語、あるいは祭事か、ナンかか」
「いや、ええ、そのとおりです」
「あんまり、いいコトバじゃナイんやな」
「そうです。もう死語に近いらしいですから」
「それを偶然、知った、と」
「そうですね」
「女から聞いたな」
「はい、女性から聞きました」
「疑問符だったでしょ。たとえば、[うちや?]てなふうな」
「そんなふうでしたね」
「ラストシーンの佐藤さんの奥さんのせりふ、あれ、近いね」
/佐藤妻 寂しくなんかないのよ。それが人間やから、とか、そんなんやなくて、私達は何なの。一人、とかじゃなくてね。鈴木さん・・・私は何?/
つまり「うちって(うちらって)何なんや」みたいなことか。「そんなふうにところです。ちょっとシチュエーションとか、意味を変えてますけど。まあ、発想としては、そうですね」

とはいえ、深津篤史の『うちやまつり』は単なる自分さがしの物語ではナイ。その位相のコトバでいうなら「自分殺し」ということともいえる。
「とはなにか」という問いに対しては、評論家ではなく、同じ劇作家として自らの作劇で答え(もしくは、応え)るべきものだナ。そうすっか。と、威勢よく締めくくっておこうっと。

2015年2月25日 (水)

『うちやまつり』とはなにか③

「いつ、やるの」~「そのうちや」。「誰や、」~「うちや」。「これも芝居のうちや」。てな調子で「うちや」の意味を「誤読」しながら探っていくのもオモシロイ。『うちやまつり』とは「うちやまくんが、つりに行く話です」という、岸田受賞パーティーでの私のジョークは、伝説になっているらしいが(ホントかよ)、それでも一向に差し支えない。戯曲の文脈には副っていると思えるから。
「うちや」を漢字で書くとどんなものが予測出来るだろうか。「内夜」「内野」「内輻」。これらは、一文字ずつの意味をつなげた造語だが、それぞれ metaphor(暗喩)、simile(直喩)、に該当可能な比喩を表しているということも出来る。たとえば「内夜」は夜の時間ともとれるし、ココロの中が夜のようだ、ともとれる。「内輻」の「輻」は「車輪の軸と外側の輪とを結ぶ、放射状に取り付けられた数多くの細長い棒」のことだから、ここから、放射状の関係と了解の内なる比喩ということも可能だ。「内野」は、環境(状況)空間を意味しているようでもあるし、内だから、その「内側」なのか(そういう特定の場所が作品の中には設えられてある)、もちろん、これもココロの中のことととってもイイはずだ。遊びだすとキリがナイので、それはこのへんにしておいて、と。何れにしても、「うちや」というコトバの触感から推測するに、作者にとって、何かが、外化(英語でいう alienation.独語でいう Entfremdung.哲学用語として、自己の対象化、疎外)のパラ位置(反対側の位置)に在るもの、とするならば、対自の仕方(自らに向けられていた問いかけ、視線)が一度「対他」し(環境や状況に転化、移行され)、それを「即自」する(自然過程として、もう一度自分)にもどす。という、けっこう巧緻な作業がなされていることになる。なんのこっちゃと、いつもいわれるので、くだいていう。いま、自分(作者自体)が眺めている状況は「ほんとう」のことなのか、「ほんとうのこと」というのは誰も語らないのではナイか、という問題の提起から始まって、「ひとを愛するためには、あるいは他者を理解するためには、どんな自分を(コトバを)必要とするのだろうか」という真摯な問いかけに作者の視線(思考)は移行していく。そこで、作者はその視線を現象学的に「還元」してしまい、というか、現象学的還元の方法論を用いて、ある「客観視線」という無人格の「視線」が在るものとして、まず世界(状況)が眺望されているものとする。そうして、その「世界視線」を自身(作者)が自分の視線でみつめてみる。という方法(ドラマツルグ)が用いられている。これは、具体的なインスパイアの何かをいい得てはいないかも知れないが、モチベーションとしては充分だと思える。
おそらくある評論は、この作品のタナトス(死)とエロス(ここでは性的なもの)を問題にするかも知れないが、作者にしてみれば「タナトス、ナンダイそりゃ、死ぬこともセックスもナンか意味あんの。どっちも自然の成り行きじゃん」てな心境だ。(つづく)

2015年2月22日 (日)

『うちやまつり』とはなにか②

『うちやまつり』(作・深津篤史)は、「何にインスパイアされて」書かれたものなのだろうか。作品そのものが与える錯綜の強調や、そのことによって生じるストーリーの変調(それを追うことの迷走)よりも、まず、私が最も興味を惹かれるのは、作者のそのモチベーションだ。おそらく演技者はこの作品の全貌を知らないでいる(のではないかという私の推測は、アフタートークによって、確認されたけどネ)。荒っぽくいってしまえば、作者は、この作品のplotをさまざまに提出してはいるが、そのつながりは明らかにしていない。というより、むしろplotをさまざまに提出することによって成立する戯曲の完成を目指しているふうにさへ思える。とはいえ、それでは演技者、観客のattractを逸する。そこで、形態(形式)としてミステリの位相が導入されることになる。ドラマツルギーとしては、それで充分だという気がする。しかし、この作品は新手のミステリなどではナイことは、たとえ誤読が演出者や読者、役者の特権だとはいえ、留意すべきことだ。また、観客の「解釈に任せる」というのも、それはこの作品特有のことではなく、かなりカテゴライズの強固なものやテーマ性の強い演目の舞台を除外すれば、どのような演劇にもいえることだ。
私は深津作品の熱心な読者や観客ではナイが、『うちやまつり』はさすがに岸田戯曲賞作品だけあって、この作品の表現が持つ特異性とは格闘してもいいのではないかと考える。宿痾の鬱病の悪化で、心身の状態があまり良くはナイが、たとえ途切れ途切れでも、そんな作業はやってみるつもりだ。そのほうが私にとって、深津さんを「夭折の天才」として惜しむよりは、充分な供養になると信じている。
次回は『うちやまつり』というタイトルから演繹して、作者のモチベーションを探れればと思う。(続く)

2015年2月21日 (土)

『うちやまつり』とはなにか①

『うちやまつり』の特異性だと思われるせりふから観ていく。この作品の戯曲(書かれたものとしての劇・リテラシーによる演劇)を「演ずる・演じられる劇・スキル)に転換、写像するのは、けっこうな困難を伴うように感じる。では、戯曲を受けて、役者の身体は具体的に何をしているのか。戯曲言語を「関係」だとすると、身体は「了解」を具現してみせていると、現在のところ暫定的にしか私にはいうことが出来ない。前者は空間性だが、後者は時間性だ。従って戯曲を読んだ場合、読者はその「空間」の度合いを感じるが、舞台を観劇した場合、その「時間」を観ることになる。
名詞と動詞(無機的)なコトバだけ発すると、ヒト(の「関係」)はデスコミュニケーションに近づくしかナイ。なぜなら、副詞的、形容詞的、感動詞的(有機的)な、あるいは日常的な助詞のある会話がなければ、ヒトは「了解」の機能を逸するからだ。
「アスペルガー症候群」の理論的誤謬は、あまりに概念認識が漠然とし過ぎているところにある。つまり、そこでコミュニケーションとされる言語(表現)が「情況」なのか「本質」なのかが曖昧なのだ。『うちやまつり』はthroughして観てしまうと、あたかもこのアスペルガー症候群の集合に入ってしまうような錯覚に陥る。
演劇では、役者は「行間を読め」といわれたり、現在では「サブテキストを使う」といわれたりするが、私は、そのようなものが存在するのかどうか、かなり疑問視している。それらは、書かれたせりふの「裏読み」「深読み」に該当するのではないかという懸念があるからだ。それじゃあ、劇作家はたまったもんじゃナイ。
私の理屈では、書かれた劇(戯曲)を演じられる劇(舞台)に写像、転換することを「台本化」すると称しているが、そのプロセスで想像変容が生じるのはアタリマエのことだ。つまり、戯曲の言語は徹頭徹尾イメージであり、役者の身体は現実だからだ。
全体の印象としてしかいえないのだが、『うちやまつり』のせりふ群は、ふつう「発語」される類のものではなく、多くが「内なる言語」を意図的に発語させている。これは、コトバをかえていえば、単に視線だけで終わるものを、言語化させているということだ。従って、この作品においてはウィトゲンシュタインの言語学など、まったく役に立たない。ソシュールの言語理論に置換するのも怪しくなってくる。(つづく)

2015年2月16日 (月)

エネルギーへの夢

昨日の『夢の扉』(毎日放送、20115/02/16、6:30)は水素エネルギーよりもっとスゴイ宇宙太陽光発電だ。驚いたなあ。エネルギー開発はこういうところまできているんだ。仕組みを簡単にいえば、いま地上にあるようなパネルを宇宙空間に配置して、発電、充電、送電すれば、送電ロスが殆どナイ。太陽光パネル発電はロス(損失)が大きい(20~30%)のだが、これはさまざまなアイデアで、改善はされているのだが、普通、電気というのは、送電線が長くなればなるほど放電によるロスが生じる。しかし、宇宙太陽光発電はマイクロ波を使うので(マイクロ波というのは電子レンジのあれね)、まず、宇宙空間のパネルから地球まで95%の効率で、電力が届く。そこからは、マイクロ波で電気を送るから配線が不要になる。送電線もなければ、コンセントからの繋ぎもナシ。つまりコードレス。これが、京大のそこんとこ研究所の25年の研究実験を経て、ロケットに積めるまで小さく出来た。うまくいけば、10~20年後には、実用化出来そうなのだ。科学(大学)と業界(三菱)と国の予算の三位一体でガンバッテる。研究のヘッド(まだ46歳)は夢を語る「人類の生存をエネルギーにおいてアト10000年伸ばす」。
こういう科学の夢の実現は、水素エネルギーなどとともに、私たちの希望だ。
とはいえ、マイクロ波放射だから、密度を濃くすればおのずと兵器にもなる。科学はいつも諸刃の剣だ。
しかし夢(希望)ある人びとの仕事ある限り、まだまだ人類は棄てたもんじゃナイ。オレもアト10000年くらい生きてみたいね。それが出来るなら、悪魔にだって魂売るワ。

2015年2月14日 (土)

ノーキョー改革と水素元年

安倍ちゃんが、所信表明演説で、よくもまあというほど耳触り(本来は耳障りという否定的なコトバとして使われていたが、近年、こういう肯定的なコトバにもなった)なことを声高に述べて気炎を吐いているが、確かにノーキョー(alphabetでいおうと、脳凶と連想しようとどっちでもイイヤ)の改革は必要なことは確かなことだ。ノーキョーの農業従事者管理は「支配」にまで腐敗していることは、もううーんとむかしから囁かれているからな。私の高校時代の学友の数人は、このノーキョー職員になった。で、二十歳くらいの頃かな、同窓会で出合ったら、いってたよ。「ノーキョー職員は天国やな。ビールなんか買うたことないわ。中元、歳暮で、何から何まで届くからな。食料品から犬の餌まで、みんなタダやで。もう、ウハウハの極楽や」。別の彼のひとはいう「農業の後継者がいないというのは、みんな百姓がイヤでノーキョーに勤めるからや。田圃みたいキツイ作業なんか、アホらしくて、してられへんわ」。で、彼等はいま、悠々自適の老後に入ったが、口をそろえて「海外旅行は、もう飽きた」というのだ。
安倍ちゃんの改革で、何処までノーキョーが新しくなって、いまや工業化した農業が何処までいいふうになるのか、私にはよくワカラン。とはいえ、農民が票田だった与党が、いまや動かぬ山になっている、その影響が聖域の改革断行というカタチで生ずるのは、そう悪いことではナイ。(安倍ちゃんがいうほど上手くいくなんてことは夢にも思ってはいないに関わらずだが)。

水素元年というらしい。水素がエコなエネルギーとして本格的に市場参入してきたからだ。まったくもって理想的なエネルギー源だ。だいたい、水素というのは、視点を転じて観れば、海水からもとれるのだから、無尽蔵のエネルギーだ。
とはいえ、ボンクラな経済学者が考えるように、そう楽観はしないほうがイイ。水素エネルギーは「使用価値」は高いが、経済は使用価値が支配するものではなく、「交換価値」によって動く。石油資源を保有しているロシア、中東。シェール(ガス・オイル)で稼いでいる米国が、そんなエネルギーの世界支配を許容するワケがナイ。
日本も本気で動くのなら(それなりの予算はついているのだから)、ほんとうの人道支援で、エネルギーのナイ、貧困国の支援を含めて、水素エネルギー立国を考えるべきだ。
原発の再稼働。フクシマは人災だということを忘れてはイケナイ。原発の設計、建造は、他の如何なる建築物よりも安全であることはマチガイないのだ。そんな資料を提出されても、フクシマの後処理で死者の多く出ている現状、いまだ仮設住宅生活者のいる状況を考慮すれば、「人道的」に、安易に再稼働などというべきではナイ。
ちなみに、核融合原子力発電のエネルギーは重水素だ。太陽は核融合エネルギーだ。太陽光パネル発電のおおもとは、核融合エネルギーだということだ。

2015年2月13日 (金)

確定申告におけるゲシュタルト崩壊

毎年思う。確定申告に使うエネルギーで、私なら戯曲三曲は書ける。去年は収支を記帳するという手間をやったが、その分、今年は若干、楽ではあったが、去年は支払調書の金額がマチガッテいたので、その再発行を待って修正申告になったので面倒だったが、今年は一枚だけ(額は五千円だったんだけどね)やはり支払調書が遅れたため(旧住所に送られたんで、届かず、送りなおしてもらうのを待った)、全ての計算が滞り、やっと届いたところで計算して、さて、出来たってところで、「確定申告は必ず一度マチガウ」というマーフィーの法則でもあるのか、鶴屋南北賞の賞金を「雑所得」と思い込んで計算したことによって(ん~と、あれ、一時所得なんだなあ)、計算しなおすことになった。するてえと、賞金てのは、二度計算することによって、所得額が減るんだな。200万が75万になった。するてえと、収入の段階で、経費は去年と似たようにかかっているのだが、仕事の激減でさほどの金額にならず、控除を差っ引くと、所得は赤字になった。物書き仕事をやり始めて、所得が赤字になるのは初めてのことだ。経費はあまり変わらない。
この経費が難しい。面倒だ。たとえば、コーヒーを飲む。これ、コーヒーブレイクで休憩時間かというと、そうでもナイ。喫茶店で仕事をする劇作家連中も多いだろうし、執筆に行き詰まって、喫茶店でコーヒーを飲みながら思索を練るということもある。では、どの程度、コーヒーを経費に出来るのか。(コーヒーについてのエッセイを依頼されたりもするからな)。
だいたいにして、私たちの職種は効率が悪い。企画があって、書く。書くのに資料を買うし、取材もする。ところが、この企画がボツになることがある。書かれたものは虚しく残る。こういう目にはたびたびあってる。だから、そういう原稿は残しておいて、似たような注文がきたときに、手を入れて使うってこともあるんだけどね。(そのためにまた経費がかかるけどナ)。
さらに、クオリティを落とさないようにするのに勉強すると、やはり資料や取材の費用が嵩むのだが、原稿料、脚本料は上がらない。むしろ、下がっている。下がっているからといってダンピングは出来ない。威張るワケではナイが(ちょっとは威張るけど)、私が一曲30万で書いてしまったら、他の作家の稿料は、おそらくそれ以上上がらない。これは、名古屋なんかで、タレントのギャラが上がらないのは、ベテランが安く仕事をしているからなのと、同様のことだ。だから、意地でもある基準は遵守している。
確定申告に話をもどすと、まず、計算して検算すると、どういうワケか数値がチガウことが多い。で、三度目やるとまたチガウ数値が出てくる。そういうことで10回計算して、最も多く出た数値に決める、てなことになると、もう確率になる。さらに、電卓が故障することがよくあって、三回も買い換えたことがある。さらにっ、パソコンがエラーを起こしたことがあって、電子が霧散したことがあったので、用心のため、いまはUSB三つにバックアップをとっている。最も困るのはエクセルが使えないので、どうにもこうにも焦燥するだけで、次第に、数字やら文字やらがゲシュタルト崩壊を始める状況に陥ることだ。「3」というのが、これ、耳のカタチか?、になる。漢字が古代文字みたいになってくる。「費用」という文字が、費は$と貝にバラバラになり、用は田んぼを何かが突き抜けていく。なぜ「1」は棒なのだ。「8」はマルが二つか、団子か。「料」は米か、光の輝きか。この右の点々と交差する線はナニよ。
そのうち、書類を書いている私がナニをしているのかが、ワカラナクナッテくる。下書きをしているのに、提出用で、必ずマチガウ。
再度いう。確定申告の書類を作成するエネルギーがあれば、三曲くらいは戯曲が書ける。

2015年2月 5日 (木)

人道支援とはナンなのか

ODA(Official Development Assistance・政府開発援助)の頭文字。 政府または政府の実施機関によって開発途上国または国際機関に供与されるもので,開発途上国の経済・社会の発展や福祉の向上に役立つために行う資金・技術提供による公的資金を用いた協力をいう。~
ここ数日の「イスラム国」関連のニュース、報道番組で、日本政府がやたらと「人道支援」というコトバを強調するので、ちょっと調べてみた。で、それは上記のODAのことをいうのだろうと、考える。
日本人捕虜処刑(殺害)については、「戦死」「討ち死に」という他、私にはいうことはナイ。なんなら、その前に「無念の」と付けてもイイが。ともかく「イスラム国」は「戦争」をしているのだから、「善意のジャーナリスト」だろうが、当の「イスラム国」軍が敵と見做せば敵だし、戦争というのは敵を殺す行為(政治)なのはアタリマエのことだ。もちろん、「イスラム国」をテロと名指しても、イスラム教とは無関係だとムスリム関係者が説明しても、それほど意味はナイ。それと同様に日本は武器提供はしていない、戦闘には加担していない。人道支援をしている。と声高に訴えても、「イスラム国」にしてみれば、まったく意味がナイ。
とはいえ、「イスラム国」と名乗る集団が、貧困や抑圧を根源として生じてきたものならば、その無知や飢餓を救済するために、人道支援をする日本の営為は悪いこととはいえない。だから、どんな「人道支援」をしているのか、つまりはその銭の流れと、成果とを国民は(税金を支払っている以上、その税金が人道支援に使われている以上)知る権利があるし、政府、関係機関は情報を公開する義務があるはずだ。
で、ウィキペディアなどで(オレは、月々700円、この機関に銭払ってっからな。堂々としておこう)調べてみたが、どうも、そのあたりはグレーなのだ。つまり、何にどんだけ銭使って、どんな成果があったかは、大事なところで非公開なのだ。要するにワカンナイのだ。
国民がワカンナイことを、錦の御旗のごとくおったてて、主張しても、納得出来るワケがナイ。ODAについての批判、要望も読んだが、こっちのほうが説得力がある(詳細調査はご自分でやって頂戴ね)。このさい、政府はその辺の声に耳を傾け、強調している日本の「人道支援」の具体性を国民に情報開示したほうがイイ。
昨日、『ひるおび』(毎日放送)で、「にほん、ワルクナイ、ニホン、りっぱ」てなことをやっていたので、ほんとかよと、面倒くさかったが、ちょっと調べてみた。
あんまり、感情的歯切れの良すぎる安倍ちゃんの言説やら、マスコミ報道の煽りに踊らされて、アトで泣きをみたくないからな。

« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »