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2015年1月11日 (日)

闘えど争わず

いわゆるアナーキズムの舌鋒であり、カール・マルクスの経済学から多くを学び、あるときは友人にあるときは論敵となったバクーニンは、「国家」(という権力形態)を絶対に認めなかった。マルクスのコミュニズムとバクニーンのアナーキズムの最大の違い、岐路はそこにある。簡単にいってしまうと、マルクスの共産主義も最終的には国家という形態は消失することになる。これはマルクスのリアリズムだが、ある意味、理想主義、楽観的に過ぎるともとれる。バクーニンはいう。「いったん権力を手にした者が手にした権力を手放すとは思われない」つまり、一国社会主義という国家形態はなくならないという予測だ。レーニンは、ヘーゲルの弁証法も検討した結果、やはり、敵対する権力と対峙するには、相応の権力システムが必要だと考えた。マルクス-レーニン主義によるレーニンの『国家と革命』では「「プロレタリア国家」は、プロレタリアートにとって最も民主主義的であると同時にプロレタリア「階級」によるブルジョワ「階級」に対する「独裁」を行うとしている(プロレタリア独裁)。そして、そのような「プロレタリア国家」は、やがて「死滅」していく。「プロレタリア国家」を別の表現で言えば「資本主義」から「社会主義」に至る過程の「過渡期国家」である」。つまり、「国家」システムは共産主義社会への過渡期に必要なものだという考えだ。
ほんで、や、現実、現行世界、社会はどないやというと、けっきょく、バクーニンの予想どおりになっている。「国家」というものを煎じ詰めていくと、「権力のシステム」になる。ミシェル・フーコーは、終生、この「権力」というものについて研究、思想した。
私たちは、いま「監視国家」という、さも新しそうな Information technology を、とやかくいってるが(たとえば海外ドラマの『 Person of Interest』)、フーコーは、かなり早くからこの「権力」に取り組んでおり(んで、もう、死んだんやけど)マルクスの限界も提示していた。(とはいえ、有効ではナイとはいっていない)
さてと、取って返して、アベちゃんズムの飴はなんだか口の中で小さく溶けだし、鞭のほうがいよいよ振り上げられてきた。沖縄の新知事は、日本政府に門前払いをくらい、基地建設反対なら、もう沖縄に銭はやらんといわれているし、私(たち)に支給されている年金は減額されるそうだし、いま、年金を納入している若い人びとが、年金を支給されるかどうかは、五分五分のバクチになっていることは、経済学者や経済コンサルタントなら、みなさんご存知。そこへきて、国保は納入額が上がり、といって75歳以上の医療負担特例は、これがなくなっちまう。さらに消費税10%が待っている。つまり「国家」というのは「権力のシステム」であると同時に、もう一つ「適者(のみ)生存」という顔を持つ。単純明快にいえば、その国家に適しているもののみが生き残れる。(アトは死ね)。んで、どうなってるか、世界で難民の数は増え続け、格差と差別から、国家が「テロ」と呼ぶ人びとが、これも増えている。(私は『イスラム国』はまったく支持しないが、虐げられてきた人びとが武器を持たざるを得ないのは、当然至極のことだと思う)。
私などは年齢的にも私財的にも、心身の壊れ方からみても先がナイ(つまりあんまり深刻に考えなくてもイイ)から、どうだっていいやと半分は不謹慎な心情なのだが、半分はヒジョーに不機嫌、不満、愚図つく、むずガル、のココロだ。
もうちょっと呑気に「老後」というものがおくれると思ってたよ。しかしそんな「癒し」は「マヤカシ」に過ぎないと、実感している。これ、年頭所感だぜ。

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