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2015年1月

2015年1月31日 (土)

ふーん、そうなのか。

またぞろ、確定申告の時節になってきた。去年は小まめに記帳しておいたので、とりあえず収入金額を出してみた。驚いたことに、年金給付金と、鶴屋南北賞の賞金を加えなければ、つまり、純労働賃金の収入は、168万円だった。そりゃ、そうだよな。仕事ナイんだもん。キッチリ、貯金は150万円目減りして、てなワケだから、切り詰めていって、何とかアト2年は生存しなきゃなあ。avecビーズの次の公演は二年後だから、それはなんとか観ないとダメでしょ。まあ、そこまでですか。
だから、私には、老後の心配というものがナイ。介護を受ける不安もナイ。初期高齢者のあたりで、残った銭で、ふらっと旅に出て、野垂れ死にという寸法だ。
とはいえ、そういう人生は覚悟の上で生きてきたんだから、特に恐怖感はナイんだ。
はい、よく生きました。私としては上出来です。誰にももんくはありません。
これからもよく生きるつもりです。信じたとおりに生きます。誰にももんくはいわせません。さて、今晩の晩飯は、賞味期限が今日までの玉子を使って、玉子丼と。
20年くらい前から、「貸し」のようなものをつくったとき、「いま、返さなくていいから、オレがいよいよ食えなくなったら、一度だけ、飯を奢ってくれ」と、何人かにいってきたんだけど、私は本気だったんだけど、相手は冗談だと思ってたみたいだな。でもね、ありゃあ、マジだったんですよ。たいていの自身の生存のperspectiveはワカッテいたから。
いやあ、よく頑張ったワ。
人生なんて二度とゴメンだけど、悪くはなかったワ。

2015年1月20日 (火)

観客の存在

例えていうと、観客というのは「劇場のエアコンにクレームをいうひと」だ。夏、「暑いよ」という観客があれば、「冷房、効き過ぎ」という者アリ。冬、「寒いよ」という観客あれば、「暖房、効かせ過ぎ」という観客アリ。
観客は、それぞれ、チケット代という均等の物差しを持っているのだから、おのおの、何をいおうと自由で、権利がある。ただ、私自身は、そう思っているからこそ、観客の注文に応える義務など全くナイと心得ている。
公演終了後の、よくある観客アンケートに眼を投じることは、もう20年以上前からヤメタ。理由は、上記の通り。付け足していえば、「ここは、こうすれば」「このシーンはこんなふうに」「この役者は」・・・n,てなふうなことは、こちとらにはもうすでに棄てネタの類で、指し手は三手先まで、数十通りは読んで、シミュレーションは済んでいる。それでも、時折、外国語の使い方の指摘などがあった場合は、指摘された方には「それはそちらのオマチガイです」という手紙をしたためて、キチンとケリはつけている。

avecビーズ、『トワイライト アット タイム ~この黄昏よ』の公演は終了した。アンケートは例によって読んでいないが、出演した女優の知り合いの俳優から彼女にメールが届いた。許可をもらって、ここに転写する。ワカッテいるひとにはワカッテいるんだなあと、ちょっと、その女優と二人、安心して、観客不信も少し融和した。
/お芝居は本当に面白いですね。お世話になった方の舞台だから行きたいなー、と、なにげなく観にいった先で、様々な感情やドラマや映像や景色が見える。
看板役者や知り合いを観たい気持ちより、作品を観れてよかったな、と思うことのできる幸せを感じました。
そう思わせられるのは全て演出家さんがきっかけなんでしょうか。いや出演者の方も入り混じってですよね。
未来の日本は、老人が元気になって、なりすぎて今日みたいな夢のある老人社会に変わっていくそんな印象うけました。いい感想かわからないですが。
とにかく
こんなにも現実と虚構か疑いながら見るハラハラドキドキ感を味わえる舞台は初めてでした。
ありがとうございました。/

この「現実と虚構か疑いながら見るハラハラドキドキ感を味わえる舞台」というのは、当方の「狙い」だった。また、「看板役者や知り合いを観たい気持ちより、作品を観れてよかったな、と思うことのできる幸せを感じました」は、当方にとって僥倖の至りだ。
avecビーズは次作品まで2年間のspanがある。これは、次作にそれぞれ楽器演奏をお願いしたためで、主要メンバーはこれから2年間、初めて手にする楽器の練習に努めることになる。今回の芝居は、私自身ずいぶんと納得のいく(というのは、私のやってきた演劇というのはマチガッテいなかったと確信のもてる)出来具合の舞台だった。私は、今年三月から、三度、単身名古屋に戻って、アト2年間をなんとか生き抜くつもりだ。
彼岸へと、まったく彼岸へと往く者に幸あれと祈る。

2015年1月13日 (火)

映画感想『SIN CITY 復讐の女神』

SIN CITYを訳せばズバリ『罪の都市』。原作、フランク・ミラー(このひと、かの『バットマン』の作者。、監督、ロバート・ロドリゲス(このひと、あの『スパイ・キッズ』の監督。いやもう、キャスティングがスゴイんですが、ともかく、ジェシカ・アルバにはイカレる。(スカーレット・ヨハンソンといい勝負よ)。レディー・ガガが、ちょいとだけ、これまたいい役で出演。エヴァ・グリーン、こういうのがタイプでなくて良かったと思う。ミッキー・ロークはなんてcharmingなんだろう。
前作よりホンのまとまりが良く、映像もおそろしく美しい。こちとらアドレナリン出まくりですわ。前作から10年を経て、衰えるところなし。もう一作、2年後くらいに欲しいですなあ。そこらへんあたりなら、まだなんとか生きてるはずだから。

2015年1月12日 (月)

襤褸の叛旗

ひとは老いると、ある程度ゆるやかな、癒される日常がおくれるのではないかと思っていたが、これはまったくの錯誤だったことを、老いていま、私自身が身をもって識ることになった。
老いることは、この人生の地獄の、一つ下の下層に落とされることだ。(仏教の地獄は八層になっている)。とはいえ、人生というのはシーシュポスの刑罰だと、高校生の頃から「カッコヨク」覚悟していたので、特に、それならそれで、イイ。生きて、死んでみせればヨシ。で、いいのだが、なるほど、さすが刑罰だけのことはあって、左膝の半月板断裂は三年以上前の古傷だが、ここにきて、座骨神経痛の発症の影響で、ぶり返してしまった。こういう場合はテーピングも効果的だが、簡単なのは、「動かないでおく」のではなく、「動いても痛くないように動く」なのだそうだ。動こうとは思うが、宿痾の鬱病を去年から引きずっているので、なかなか気力がいる。最近は、両腕(特に左手)の痺れ、だるさと、指関節の痛みとあいまって、半身半分不随てなふうになっている。
以上の状況より深刻なのが、眼精疲労というもので、眼科医は「老化だから」と諦念を促すのだが、こちとら読み書きが仕事だから、仕事が出来ないのが辛い。休み休みやっているのだが、次第にモニターも、キイボードも読みにくくなってきて、焦燥感だけが増加する。映画もなるたけDVDで間に合わせているが、100分が限度で、字幕が読めなくなってくる。目薬の減り方だけがすさまじい。困ったのは、これが舞台を観ているときも同様にあって、小劇場でも、1時間をこえたあたりで、役者の顔がピンボケになってくる。
一晩ねむっても視力がもどらないのだが、ともかく抵抗的に昼寝をして、目を休ませてはいる。
ピンボケになるくらいならまだマシなのだが、ここに目眩が加わる。コメカミからの鈍痛で、歩いているとややふらつく。つまり、足と眼の壊れ具合で、バランスを崩すことがある。これが、「動いたほうがイイ」を阻害している。
ただ、精神というか、感受性というは、十代の頃と変わっていない。(性的な好奇心はかなり減衰はしているが)、まだ、好奇心は損なわれていないようだ。
雪が観たいと思う。『寿歌』を書いたときも、そう思ったのを記憶している。初夏だったと思う。
劇団員が稽古後、終電の時間まで切り続けた数万枚の紙の雪。あの雪は生涯、世界で観た最も美しい雪だったと自負している。
今朝は自殺念慮が強いので、「雪の中で死にたい」などと妄想したりしたが、『シン・シティ』でも観に行くことにする。
ともかく、動く。動けるうちは動く。自ら鞭打っても、動く。動くことにはナンの意味もナイが、動くことによって起こる「作用」には意味があるのだ。
カラダ動け、ココロ動かせ。

2015年1月11日 (日)

闘えど争わず

いわゆるアナーキズムの舌鋒であり、カール・マルクスの経済学から多くを学び、あるときは友人にあるときは論敵となったバクーニンは、「国家」(という権力形態)を絶対に認めなかった。マルクスのコミュニズムとバクニーンのアナーキズムの最大の違い、岐路はそこにある。簡単にいってしまうと、マルクスの共産主義も最終的には国家という形態は消失することになる。これはマルクスのリアリズムだが、ある意味、理想主義、楽観的に過ぎるともとれる。バクーニンはいう。「いったん権力を手にした者が手にした権力を手放すとは思われない」つまり、一国社会主義という国家形態はなくならないという予測だ。レーニンは、ヘーゲルの弁証法も検討した結果、やはり、敵対する権力と対峙するには、相応の権力システムが必要だと考えた。マルクス-レーニン主義によるレーニンの『国家と革命』では「「プロレタリア国家」は、プロレタリアートにとって最も民主主義的であると同時にプロレタリア「階級」によるブルジョワ「階級」に対する「独裁」を行うとしている(プロレタリア独裁)。そして、そのような「プロレタリア国家」は、やがて「死滅」していく。「プロレタリア国家」を別の表現で言えば「資本主義」から「社会主義」に至る過程の「過渡期国家」である」。つまり、「国家」システムは共産主義社会への過渡期に必要なものだという考えだ。
ほんで、や、現実、現行世界、社会はどないやというと、けっきょく、バクーニンの予想どおりになっている。「国家」というものを煎じ詰めていくと、「権力のシステム」になる。ミシェル・フーコーは、終生、この「権力」というものについて研究、思想した。
私たちは、いま「監視国家」という、さも新しそうな Information technology を、とやかくいってるが(たとえば海外ドラマの『 Person of Interest』)、フーコーは、かなり早くからこの「権力」に取り組んでおり(んで、もう、死んだんやけど)マルクスの限界も提示していた。(とはいえ、有効ではナイとはいっていない)
さてと、取って返して、アベちゃんズムの飴はなんだか口の中で小さく溶けだし、鞭のほうがいよいよ振り上げられてきた。沖縄の新知事は、日本政府に門前払いをくらい、基地建設反対なら、もう沖縄に銭はやらんといわれているし、私(たち)に支給されている年金は減額されるそうだし、いま、年金を納入している若い人びとが、年金を支給されるかどうかは、五分五分のバクチになっていることは、経済学者や経済コンサルタントなら、みなさんご存知。そこへきて、国保は納入額が上がり、といって75歳以上の医療負担特例は、これがなくなっちまう。さらに消費税10%が待っている。つまり「国家」というのは「権力のシステム」であると同時に、もう一つ「適者(のみ)生存」という顔を持つ。単純明快にいえば、その国家に適しているもののみが生き残れる。(アトは死ね)。んで、どうなってるか、世界で難民の数は増え続け、格差と差別から、国家が「テロ」と呼ぶ人びとが、これも増えている。(私は『イスラム国』はまったく支持しないが、虐げられてきた人びとが武器を持たざるを得ないのは、当然至極のことだと思う)。
私などは年齢的にも私財的にも、心身の壊れ方からみても先がナイ(つまりあんまり深刻に考えなくてもイイ)から、どうだっていいやと半分は不謹慎な心情なのだが、半分はヒジョーに不機嫌、不満、愚図つく、むずガル、のココロだ。
もうちょっと呑気に「老後」というものがおくれると思ってたよ。しかしそんな「癒し」は「マヤカシ」に過ぎないと、実感している。これ、年頭所感だぜ。

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