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2014年11月 7日 (金)

米をかす

「かす」というのは、標準語(あるいは現代語)でいうところの「研ぐ」に近いコトバで、けして方言という類ではナイ。むしろ古語の部類に入る。「研ぐ」そのものであったり、研いだ米を水に浸しおくまで含まれることもある。このあたりのことは、ネット関連の語彙辞典、やウィキペディアですぐ調べられる。私自身はウィキペディアはよく活用する。(こないだも書いたようにちゃんと銭払ってる)のだが、戯曲塾の塾生連中には、出来るだけ面倒でも辞書を引けと指導する。理由がある。辞書には、卓上のものでも一語調べるのにページを開くと、さまざまな他の語彙、コトバに巡り合うことが出来るからだ。つまり、開くは「啓」なのだ。ポケット版(卓上版以下)の辞書は、元本の孫孫引き程度のものが多く、誰が調べたのか忘れたが、確率的に2ページ(開いて左右)の語彙、コトバの説明には、一つの割合でマチガイがあるそうだ。例えば「酢豆腐」など、「豆腐の酢のもの料理」などと平気で書いてある辞書もある。(「酢豆腐」は落語の根多だ)

前説が長くなった。

「米を炊く」ときには「米をかす」のだが、これはいまの炊飯器でもそうだ。たぶん、私などは、お竈(くど)さん(「竈(くど)」とは、竈(かまど)のことだ。お釜で飯を炊くところネ。主に京都文化圏では「おくどさん」と呼ぶ)で、飯を炊くことが出来る最後の世代だろう。炊事一般にもいえることだが、独り暮らしのときは、この「米をかす」ときの水の冷たさ、次第に冷たくなっていく水の感触で、季節を知ることも出来た。「ああ、だいぶんに水が冷たくなってきたなあ」だ。別に顔を洗うでもいいのだが、何かやはり、食うことにつながるものに、強い印象が残るのだろう。いまは仕事場を大阪に移転させたので、嫁の仕事とのサイクルの違いから、私自身よく料理(調理程度だけど)するし、当然、飯を炊く。このあいだ、新米が出ていたので、ネット通販で近江米(江州米)を買い求め、いま、それを食ってる。ちょっと焼き飯にするのにはもったいない。 「米をかす」のに、かつて茶筅の親方のような便利な道具をみつけて使っていたのだが、いまは、みつけることが出来ない。あれは、たいへん便利だった。簡単なアイデアなのだが、重宝していた。(簡単なものだから、作れないワケはナイんだけどね)。

冬が近づいて来た。水が少しずつ冷たくなっていく。

この季節の移り目は、鬱病罹患者にとっては、あんまり楽な時期ではナイ。(そうでナイ鬱病者もいるんだけどね、イロイロだから)。私などは午前中、寝起きから、すでに殆どknockoutだ。すぐ「路頭に迷ってしまう」。時間は未来からやって来ることなく、過去からしかやって来ない。こういうことについては、また稿をあらためて、書く。ともかく、冬が近づいて来た。米をかす水が少しずつ冷たくなってきた。

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