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2014年11月 9日 (日)

鬱に未来はナイ

鬱病の症状の特徴として、私の場合、空間的には「路頭に迷う」という言語域で表され、時間的には「時間が過去からやって来る」ものとして感じられる心象が在る。ただし、これは精神的(観念的)なものに拘った場合で、身体的にはさまざまで、その最上級が「のたうち回る」(ような、という比喩ではなく、語源通り、莞打(ぬたう)つ、沼田(ぬたう)つ。前者、莞はかやつりぐさ科の多年草で、沼などの湿地に自生し、茎をむしろを織るのに使うが、このとき砧(きぬた・木製の槌)で打つ。後者は野生動物が沼地で気繕い、毛についた虫を、転がりながら落とすさま)なのだが、身体的な症状はまさにさまざまなので、今回は取り上げない。
空間性の象徴の「路頭に迷う」は、文字通り、何処へ行っても(何処にいても)そこが自分のいるべき場所ではナイという不安、自己喪失感に囚われることだ。コトバを変えていうと「逃げ場がナイ」と感ずることだ。肝腎なのは、その理由(原因)が奈辺に在るのかが自身にまったくワカラナイということだ。この焦燥はそうとうなものだ。
「時間が過去からやって来る」という時間性は、簡単にいえば「未来、将来に希望が持てない」でも当たっていないことはナイ。この先、自分に(が)必要な事は(が)ナイ、という観念だ。
そうすると、この両者の[純粋疎外]において、それを解決するには[原生疎外]の解決と同様の[消滅=死]を選択せざるを得なくなる。これが鬱者の自死だ。これは希死念慮から自殺念慮へと発展する。
そこで、その「対処」として、「ここは自分の場だ」という[場]の確保が前者に、「希望はなくとも、とりあえず[予定]を」という未来(将来)に対する約束手形の所有が挙げられる。前者の[場]は、空間を必ずしも意味しない。例えば、私の場合「書くこと」という時間の空間化がそうだし、それは特定の[場]ではナイのだが、もちろん、具体的な[場]であったほうがイイ。
この「対処」はある程度の鬱症状(感覚・領域)に対しては、効果を持つが、重度になると、まったく無効化する。ただし、どのように重度化しても、「私はいま重度な鬱状態にある」という自覚だけはなくならない。だから「この状態は、必ず、改善される」というエビデンスは希薄だが、経験的学習からの「思い込み」だけを頼りにしなければしょうがナイ。
症状は、いつ何どき、何処で、起こるかはまったく不明で、何が契機になるのかもさまざま、かつ不明だ。だから「いつ死んでもオカシクナイ」というのが、この宿痾の運命のようなもので、それを逆手にとって「どうせ死ぬのだから」と、如何なる手段、方法にも頼ってみるべきで、面子やプライドに固執していてはダメだ。
とはいえ、目標生存値のクラモチくんの享年(命日)を生ききった我が身としては、あんまり頑張るのもなあ、という気分もないではナイ。まあ、いつもいうように「銭の切れ目が命の切れ目」(これはクラモチくんが入院中に口にしていたコトバ。抗ガン剤も、保険適応外になると、月2~300万円かかるゆえ)ということで、生きてるうちに、やりたいこと、やるべきことはほぼ終わっているので、もう、この宿痾の苦渋に抵抗したいとも思わなくなった。もうあの苦渋には厭きた。

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