ちょっとオカシイが、よくわからねぇっ
やや実験になる。思考実験ならぬ、思索実験。思考実験は、物理学ではよく行なわれることで、実際には試験しないのだが、思考の中だけで、さも実験しているような論理を展開することだ。アインシュタインの相対性理論に反対しての「EPR論文」などは有名。とはいえ、これはもう、量子力学としては、解決している。(にも関わらず、まだこれを持ち出す輩がいることはいるのだが)。同じ量子力学でも、有名なハイゼンベルクの不確定性原理において、当人のハイゼンベルクが思考実験として、量子の位置と運動量の関係を説明してしまったため、これをほんとうの理論だと信じてけっこういろんなガイドブックや入門書では、物理学者が真顔で書いているので、私などは、いつまでたっても「それなら測定誤差の範囲、領域ではナイのか」と、頭を抱えて、大きく回り道をして、いったい何冊、それ関連の書籍を読んだことか。
で、思索実験というのは、そんなものは一般的には存在しないのだが、私が勝手にやるだけのことで、還暦(数え年では61歳)を過ぎると、一応シニア、初期高齢者てなふうにいわれて、そういや童謡に「村の渡しの船頭さんは今年六十のお爺さん」という歌があったが、なるほど、お爺さんといわれる年齢なのだ。
で、この辺りの齢になってくると、二十歳が二十一歳になるのとはチガッテ、心身的に初体験というのが多くなってくる。もちろん、どんな人間も、どんな年齢になってもその年齢は初体験にはチガワナイのだが、二十歳が二十一歳になるのとは、やはり、まったくチガウことが多いのだ。特に現代は、generation gap というものが、四半世紀前とは全くチガウ。(と思うのだが)。だから、よけいに初体験の傷み(痛み)が激しい。
早朝覚醒が多くなるとか、寝ることによっても疲労がとれないというような常識的なことは還暦過ぎたあたりで、誰にでもやって来るだろうし、老眼なんかは四十過ぎたあたりで始まるからな。幸い私は、歩いていて尿漏れというのはまだナイが、キレが悪くて、終わったはずでチャックをあげるか、パンツを穿くかした途端、チョロッと残尿が漏れるてなことはよくある。まあ、こういう身体のことは老化として仕方がナイ。要するに気になるのは、脳髄の老変容だ。
私の場合は、三十五年余、鬱病(いまでいう双極性障害)を宿痾としている身の上なので、これも加算して、生物的老変容なのか、病的な精神のオカシサなのかの判別が難しい。たとえば、ほんの数秒、半覚半睡(とはいえど眠ってはいるのだが)して、「夢」をみることが最近多い。困るのは、これが、夢だったのか、現実だったのか、現在の出来事だったのか、過去の記憶が蘇っているのかの判別がつき難いということだ。もう少し現代的にいうと、virtual なのか real なのかを判断する自信が薄れてきている。まあ、客観的にそういうことを問題に出来るあいだは、痴呆とはいえないと思うけど。
最近になって、鬱病に「痛み」があるということがワカッタ。これは、丁度明日、精神科主治医の定期診察日なので、ドクターに訊ねてみるつもりだが、以前は、身体症状といえば「のたうちまわる」苦しさはあったが、痛みはなかった。ところが、ここんところ、急に手足の痺れや関節痛や筋肉痛、胃痛までが突発的に現れて、だるくなり、動きがとれなくて、しょうがなく横になるということが発生してきた。調べると、なるほど、鬱病患者の中には、そういったことをうったえるひとも多いらしい。
心身の老化というのは、心身が「壊れ」ることだ。毛が脱けるとか(若禿げもいるけど)、耳が遠くなるとかといった常識的なものはともかく、その「壊れかた」の加速に驚嘆するほどだ。このあいだ、高校時代の学友と食事をして、「今回はオレが払っておく。次はお前が奢れ」と銭を払ったら、一週間ほどして、その友人から現金が二千円ばかり送られてきた。で、手紙もきて「六十過ぎたら[この次]はナイ」と書かれてあった。なるほど、と納得してしまった。

