ちょっとヘンかも知れないが、よくわからねぇ
創世記を読めば、「神さん、あんた、自分が悪いと思ったことないのんけ」と憤怒するのはヒトの特権的心情のようなもんで、高校生の頃、初めて旧約を読んだときの憤りというのが、「神が自身の過ちも反省することなく、自身の創造物であるヒトを簡単に大量虐殺する、〈ノアの洪水〉他の[もっぺんヤリナオシ]的営為」の部分だった。そのときは若さゆえの早とちりかと自疑黙考したもんだが、いまなおこの憤怒は収まらないところをみると、あながち若さゆえでもナイようだ。(ついでにいうと、新約のほうの疑問のたいていはチェスタートン小父さんの『正統とは何か』によって解決、納得出来たけどネ)。
突然な始め方で恐縮、僣越だが、健さんについてちょっとひとこと、要するにさまざまに語られる伝説を踏まえ、自身の心情を交えていってみると、「健さんはものすごくまともな人間だった」のではないかということだ。世知辛い世の中、この「世知辛い」というのが仏教用語だということは以前に書いたが、そういう世間にあって、健さんは「まとも」な人間だったのだ。畏敬されてアタリマエだ。まともでナイ人間が多すぎるんだから。昨日のブログで、私が一方的に失礼にも勝手に紹介してしまった自死願望のメール差出人の方など、まだうんと「まとも」なほうで、すぐに「自殺幇助罪」にふれて、お詫びのメールを頂戴した。たいへんな仁義の在り方で「まとも」ではないか。死ぬ死なぬは、自分で決めればそれでイイじゃナイか。
創世記の「神」に比肩すれば、私などが尊敬してやまぬ今上(きんじょう)天皇陛下や皇后陛下などは、人間宣言はあるにせよ、私どものような稼業の総元締めとして、まとも過ぎるくらいまともなのだ。陛下の「ヨイショ」「シッカリ」の応援と、頭首(こうべ)を垂れての追悼の営務行脚に、どう考えても『ヨブ記』に登場して威張り散らす「神」よりうんと「まとも」をひたすら思い、目頭を熱くするのだ。私(たち)は健さんの中に、そういう「まとも」を観ていたのだ。日本国憲法第一条の「天皇」の条項の「象徴」に「アイドル(idol)」というルビをふるべきだという私見、主張は変わらない。あの柄本明さんですら、「皇居で勲章を授与されるとき、陛下がご登場されると、ナンダかワカラナイけど、うるうる涙ぐんでしまってさ」と、苦笑していたくらいだからな。
いくら死にたくないと願っても、人間という自然は必ず絶対に「死ぬ」存在だ。「生きてゆかねば」はチェーホフの課題としたところだが、ここにもう少しコトバを付け足すと、「まともに死ぬためには、まとも生きてゆかねば」という努力と研鑽が要るのだ。健さんは研鑽したのだ。(スマンな、駄洒落みたいになって)
「まともに死ぬために、まともに生きる」という、まともなことがこれほど難しい時代、情況もそうはなかったろう。と、いつの時代でも、まともなヒトは、そう思慮苦吟したんだろうな。
蛇足になるが、石原裕次郎『夕陽の丘』に捩って歌うなら、
「まともな葦は風にゆれ 落ち葉狂う狂う水に舞う この世の厭きの黄昏よ また呼ぶ秋はないものを」
そういや、もうすぐ総選挙か。「日本の社会においてこいつはかなりまともでナイなという者の名前と所属党派を書いて」投票する、ような気がしてんのは、ヘンか。よくわからねぇけど。