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2014年10月 4日 (土)

演劇は徒労か、という問いかけ

劇団coda太陽族『それからの遠い国』(岩崎正裕・作、演出)2014/10/3(金)アイホール・19:30)は『ここからは遠い国』(1996年初演・第4回OMS戯曲賞大賞を受賞)の続編にあたる。前作は周知のようにオウム事件を題材にして、それを家族の「場」にまで引き付けた、日本演劇史上に残る名作戯曲だ。
今回の作品は、単純にその後の家族を描くのではなく、さまざまな要素を取り入れて、全体に力の入った、ある意味では作者の怒りの籠もった作品になった。前作と同様、チェーホフの作品(今作は『ワーニャ伯父さん』)が要所に用いられているが、今回はシェークスピアの『テンペスト』も登場する。さまざまな世情への作者自身の接近と憤懣などの要素が錯綜しているが、私なりにひとことでいってしまえば(乱暴な批評の仕方はお許し頂くとして)、これは『ワーニャ伯父さん』対『テンペスト』だというふうに読んで(観て)しまえば、それで納得がいく。
『ワーニャ伯父さん』は、チェーホフ四大戯曲最後の作品で、テーマとなるのは、主人公ワーニャの「絶望」から「希望」への道程だ。
「われわれのあと、百年、二百年後にこの世に生まれてくる人たち、われわれはその人たちのために営々努力して道を切り開いているわけだが、その人たちは、われわれのことを少しは思い出してくれるのだろうか」
これと同じ意味合いのせりふを、元オウム信者で主人公の長南義正(森本研典)に語らせていて、それをインテリ演劇者の川上(三田村啓示)が「いまの若者の70%はいまの世界、自分を幸福だと感じている」というふうに受けて答える。つまり改革や変革など、もう遠く忘却されているというワケだ。もちろん、義正はそれに憤慨する。ここは、劇作者がもっともペンに力をこめた、いわば「肝」だ。ただし、『ワーニャ伯父さん』対『テンペスト』という主題図式はこの対立をいうのではナイ。義正自身の持つ両面性で、『テンペスト』のプロスペローは、いうまでもなく世直し宗教活動だ。この時点でも、義正は元オウムに対して kampanija の立場に在る。主人公はワーニャとして、世間に絶望する者と、プロスペローの魔法に未練(未だに秘かな期待)を持つ ambivalent に引き裂かれている。半ばそれが自暴自棄として表出されざるを得ない義正自身を描くのではなく、それを、家族の醜悪な家督相続(争続)という情況設定(situation)に並行させながらの作者の筆致は、昨今の流行だけを追いかけているような腑抜けな「戯曲」や「演劇」に対して、粉骨砕身を以て示し、渾身の姿勢をうかがわせて、sympathy すら感ずる。もちろん、その心性は作者をして、対自的に「演劇は有効か」という問題すら突き付けることになる。
ここが、この作品のややもすると破点になって現れる。作者が信じて疑わない「演劇」を作者が、この作品でゆるぎないものとしておきたいという心情は、同業者としてワカラナイでナイ。とはいえ、『ワーニャ伯父さん』のあの有名なソーニャのせりふ、「仕方ないわ。生きていかなくちゃ。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ」は、「暗転」シーンの前に園部カオリ(佐々木淳子)によって、『スローバラード』(忌野清志郎・RCサクセションの6枚目のシングル。1976年)に全て「劇的」に「置換」されているのだから(つまり、「演劇」はすでにこちらの側に在るとみていい)、このせりふを、日向智郎(米田嶺)によって、ラストシーンに用いるのは、(単純に)私の好むところではナイし、またこれが否定的に(超克として)用いられている(同時にスローバラードも流れている)のだとしたら、かなりの深読みが必要になる。単に前者の如く、演劇の有効性を確認、信頼しての構成だとしたら、ここだけはイタダケナイ。(だいたい、このせりふ、私はあんまりイイとは思わないし、好きではナイ)。
チェーホフは『三人姉妹』においても、素晴らしいラストシーンのせりふを用いている。それまでの淡々とした物語が一気にクライマックスするのだ。小説では『中二階のある家』のラストの一行、「ミシュス、君は今どこにいるのだ」は流行にすらなったほどだ。
しかしながら、これは私の趣向でしかナイのだが、四大戯曲のうち、『ワーニャ伯父さん』における、無神論者だったチェーホフの神への擦り寄りは、死や絶望に対する、ある答、あるいは問いかけにはチガイナイのだが、ここは、メーテルリンクのほうが、一枚も二枚も上手だろうと思える。(ちょっと芸がナイというのかなぁ)。
義正がプロスペローの魔法の杖をへし折るラストシーンは、森本研典のそこまでの演技の絶妙さによって、プロトタイプから救われているが、そのいきなりの潔さに、暗転の時空の「場」で、彼にどのような変容が生じたのか、これはスピンオフしてでも、ナニカ別の作品として書かれていいのではナイかと思うのは、ちと、アホな観客の無い物ねだり、余計に過ぎる要望だろうか。
とはいえ、私とはまったく劇作のベクトルはチガウが、久しぶりに意志のある、斬れば血が出る戯曲と、劇作者の孤軍奮闘がよく伝わってくる、いい舞台を観ることが出来た。(途中5~10分程、急に腹が痛くなってトイレに駆け込んだのだが、数発、大きな屁が出ただけで、鼻炎の薬の副作用で便秘だなと、ため息したが、それはあまり影響はナイと思う。途中一時退場スンマヘン)。

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