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2014年9月

2014年9月21日 (日)

High Noon

映画のほうのHigh Noonは邦題が『真昼の決闘』で、1952年製作のアメリカ映画。フレッド・ジンネマン監督による西部劇映画だが、そうか、オレの生まれた年なんだ。ネットの『Wikipedia』の解説によると「この映画の最大の特徴は、それまでの西部劇では悪漢に立ち向かう主役の保安官は無敵のヒーローとして描くのが普通であったが、そのイメージに反して、暴力を恐れる普通の人間として描かれている事にある。また協力者が真っ先に逃げ、守ろうとしてくれるはずの町の住民が関わり合いを恐れて協力や手助けを拒み、しかもその日結婚式を挙げたばかりの新妻からも見放されて孤独感に苛まされながら1人で決闘に向かう姿を描いている。共に決闘に加わってくれる人を探して町を彷徨う保安官の姿に、それまでの西部劇にあったヒーローもそして共に戦うという友情も開拓者魂もない」。とあるが、のちにマカロニ・ウェスタンで名をあげるリー・バン・クリーフを悪党四人の中の一人にみつけたことは、なんだか得した気分になった。
それはともかく、保安官役のゲーリー・クーパーはこの作品でアカテミー主演男優賞を受賞しているのだが、前記解説の中にある「共に決闘に加わってくれる人を探して町を彷徨う保安官の姿」が、私が観た限りではもっとも印象に残っているシーンだ。新妻(グレース・ケリー)の助けもあって、みごと悪党四人を倒して、町を二人して去っていくのだが、その行く手に何の希望も感じさせない、フレッド・ジンネマン監督の演出もみごとだ。あたかも、アメリカの未来を暗示させているかのようにだ。私の予想では、おそらくこのアト、初老の保安官(辞めたんだけど)は、年の離れた新妻のもとで、鬱病になり、自殺することになると思われる。
『イスラム国』という集団が、何やら中世の欧州が世界に対して行なったような、宗教をbackboneにした蛮行、残虐行為を中東で展開している。これに対して合衆国は、アホの一つ覚えのように空爆だ。合衆国民はそいつは支持しているが、地上戦には反対で、もちろんこれはイラク戦争、古くはベトナム戦争の暗い影によるものだということは明白だ。
中世でなくとも、近代ロシアの革命集団がやろうとしていたトロツキズムの世界同時一斉革命も、似たようなことになったかも知れない。とはいえ、スターリンの一国社会主義はそれより残酷な結果しか残さなかった。
要するに、宇宙人が攻めてこない限り「戦争はアカン」のだ。
しかし、世界は「真昼」だ。『真昼の世の夢』だ。(これ、タイトルに使えそう)。
私は「孤独感」とかがありていにいうと「ナイ」人間なので、たぶん、そういうものがあったら、逆に鬱病にはなっていなかったろうと思う。
人間が「孤独」なのはアタリマエのことだし、「孤独感」というのは私にとっては「退屈」に過ぎないことだし、ゲーリー・クーパー演ずる保安官が感じたのは、「孤独」ではなく、いうなれば「絶望」だ。映画の内容からいえば、神にも絶望している。

「希望という名のわたしを訪ねて」、私は、なんだかワカラナイすべてのものへ問いかける。そういうことを仕事に選んだ。それが劇作だったことは、偶然の絶対性としかいいようがナイ。

さて、お午だ。本日のランチは焼き飯。もちろんビール。

2014年9月18日 (木)

老人と自転車

『老人と海』ならアーネスト・ヘミングウェイの晩年の小説だ。名作、世界的ベストセラー、ノーベル文学賞を get するのに必要不可欠だったといわれる作品。これ、私は十代で読んだせいか、なんだかツマンナクテ、タイクツであくびの出る小説。記憶を辿っても未だに何が、どこがオモシロイのかワカラナイ。『キリマンジャの雪』はその15年くらい前の作品だが、断然、こっちのほうがイイ。(と、いまでもふと思い出す)。まあ、同病(ヘミングウェイも鬱病だった)愛哀れむで、なんですかね。
大阪東淀川区下新庄から、淡路、下町。ここは「老人と自転車」が混在していて、溢れていて、これを[活気]といっていいのかどうか、少なくとも私には自信がナイ。
とにかく停められるところにはすべて自転車だ。歩いているのは殆どが高齢者で、かくいう私も、映画はシニア料金(1100円)で観ている口だから、若いひとではナイんだけども。いま、ここに仕事場持って、住んでるんだから、一日一度は「自転車に乗って」そこに出かける。とはいっても、飯と生活用品の買い物だけだけど。
で、本日は、『いずみや』(肉屋さん)で肉ということにして、アトは老夫婦がやってる惣菜屋でスパ・サラダ買うつもりだったんだけど、11時過ぎてんのに、まだ、ガラスケースには一品も並んでナイ。親父は黙々とフライを揚げてる。しょうがないので、スーパーでサラダ買って、自転車停めてあるところまで、アーケードの路をもどる、その、ときに、ガシャンと音がして、振り向くと自転車倒れて私よりちょっとは年下かなとおもわれる高齢者も重なって倒れてる。動かない。仕方ねえな。買い物袋、路に置いて、近寄って「ゆっくりおこしますからね」と、手を添えたら、アト二人、救助の手がきて、と、この二人とも、私と同じくらいの年齢の男性。女性は、あら、とか、大丈夫なのとか、遠巻きにいうだけで、こういうときは絶対に関わりにならない。(そういうの観たコトナイ)
三人でゆっくり起す。ホワンとアルコールの臭い。朝飯代わりに飲んだのね。そいで自転車に跨がろうとしてバランス崩したと。それは仕方ないけど、飲んだら乗らないほうがイイよ。とはいえ、私も帰ったらビール飲む気でいたんだけど。
実は、自転車事故はその日二度目。一度目は私自身。自転車置き場が満タンで、通行困難だから、路地を脱けなければならない。その路地と本道との出会い頭、お姉ちゃん、何を急いでいたのか、ビュンと来て、私の自転車と前輪衝突。私はゆっくり走っていたから、おっとと足をついただけで、これは私が一旦停止しなかったのがイカンのか、彼女の前方不注意か、うーんと、考えている間、彼女が「大丈夫ですか」と繰り返していうもんだから、「大丈夫だから」とだけいって、コンマ5秒、私が出るのが早かったら、彼女の自転車のスピードでは停止不可能だから、私は横倒しだったろう。しかし、コンマ5秒、私が遅かったら、私の前方を彼女の自転車はビュンと通りすぎていただろう、などとまだ思案しながら、自転車を停めた。
死ぬも生きるも、一息の時間。そんな大袈裟なと、いうなかれ。たいてい生死の分かれ目というのは、そういう一瞬なんだぜ。

2014年9月13日 (土)

ようするに『百億の昼と千億の夜』

高校生の頃には、純文学(というジャンルが文学にあることも知らなかった)はそっちのけ、S.Fを読んだなあ。というのも、たいていの文学(世界の童話・・・アンデルセンとか、グリムにイソップ、立川文庫、中国古典、ホームズやルパンのミステリ、乱歩の少年ものから、シートン動物記に、偉いひとの伝記、クレオやら、トムソーヤ、聖書物語に、ギリシャ神話、日本文学童話・・・et cetera)は小学生の頃に読んでしまっていて、どちらかといえば、フィクションよりもノン・フィクションのほうが好みだったので、天文学や物理学、化学のホンのほうに惹かれていた。
それが、どういうワケか、S.Fになる。海外のものでは『幼年期の終わり』『宇宙船ヴィーグル号の冒険』『非Aの傀儡』『星を継ぐもの』(これはもちっとアトだったナ)、国内のものは、『東海道戦争』から筒井康隆さんの追っかけが始まり、小松左京さんは、着想はスゴイと思ったが、傾向が趣味にそぐわず。で、光瀬龍さんの『百億の昼と千億の夜』の衝撃で脳髄を熔解、精神を沸騰させられる。
ようするに私のS.Fは『百億の昼と千億の夜』に尽きている。
つうか、ね、読み終わったときは、自分の人生はこの小説とともに終わったとさへ思ったですワ。いまでもそんな気分は残存している。
同級生でもうひとり、これを読んでる者がいて、こやつは『SFマガジン』に連載のを読んでいて、ラストシーンが私が読んだ例の早川の新書判単行本とはチガウというので、慌ててそれを読ませてもらったが、ほんの少しの変更で、内容には何も影響はナイ。
のちに萩尾望都さんが、若干の脚色変更して漫画化しているが、もちろん、断然小説のほうがイイ。しかしながら、よくもまあ、アレを漫画化する気になったなあ、マンガにしたなあと敬服する。
で、どうしてこれを書こうと思ったのかは、まるでワカラン。年齢のせいか、昔のことを時折、憶い出すように(つまり懐かしむように)なったので、高校時代に思いを馳せてみたところ、ナンダか閃いてしまったと、それだけなんですがね。ようするに。

2014年9月 6日 (土)

映画感想『ルーシー』

前日に『キャリー』のリメイクバージョン(キンバリー・ピアース監督)をレンタルで観た偶然があったが、スティーブン・キング原作の映画化がたいてい失敗している原因は、この映画によく現れていたように思われる。早い話、キャスティングがプロトタイプ過ぎるのだ。
で、今朝方、私は「これ以上生きても、いいことなんか一つもナイ気がする」と思うくらい具合が悪く、ひょっとして鬱期に入るのではナイかと懸念していたのだが、ここはひとつ賭けに出るしかナイと、リュック・ベッソンに文字通り賭けて、「勝った」らしい。いいものを一つ観たからだ。
『ルーシー』(リュック・ベッソン監督・脚本、スカーレット・ヨハンソン、モーガン・フリーマン)はあたかも、ベッソンが、キューブリックの『2001年宇宙の旅』に果敢に挑んでいるかのような映画で、おそらくクライマックスのルーシーが地球時間(どころか、宇宙時間)を遡って、ビッグバン以前の、あのホーキングやビレンケンの提唱した、時間も空間ナイ物理的な場に量子がトンネル効果でひょいと飛び出る以前の、ゆらぎの海まで映像化しているのは、そのまんま『2001年宇宙の旅』のあの難解といわれる後半のシーンに重なる。
しかし、こっちは1時間30分の中にエンターテインメント性までキチンと入れ込んで、未来の話でも何でもない、現代のS.F(science・fantasy)に仕上げている。コトバを変えていうと、わざとB級映画の雰囲気で創っているベッソンの余裕の高笑いがたまらない。スカーレット・ヨハンソンがそれを意識してか、いや、天才なんだろうなあ、ヒロインを、ベッソンお望みの通りに演じているのもたまらない。彼女のルーシーと、人類の粗のルーシー(アウストラロピテクス、最初の直立二足歩行の化石人類で、1974年にエチオピアで発見、名前の由来は、当時ヒットしていたビートルズの曲名からとられている)が、時間の旅において邂逅し、触れ合うというのは感動的ですらある。
殆ど悄気ていた私は、観終わるや、「これでイイんだ。こんなふうでイイんだ」と、自分の創作姿勢に自信をとりもどして、ややコーフン気味だったワ。
「人間の脳は10%しか使われていない」という伝説を前提、モチーフにしているのだが、これは、現在の脳科学では否定されている。(というか、元々はアインシュタインのジョークが、まともにとられて一人歩きしているだけなのだが)だから、そこを突っ込んでも意味はナイ。あくまでこれは哲学的なお伽話として観ないとイケナイ。しかし、ベッソン監督の映画って、観ると、いつも元気になっちゃうなあ。キチンと遊ばないとねえ。土居くん、千葉くん、林に高橋、中村、これ必見だぜ。

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