High Noon
映画のほうのHigh Noonは邦題が『真昼の決闘』で、1952年製作のアメリカ映画。フレッド・ジンネマン監督による西部劇映画だが、そうか、オレの生まれた年なんだ。ネットの『Wikipedia』の解説によると「この映画の最大の特徴は、それまでの西部劇では悪漢に立ち向かう主役の保安官は無敵のヒーローとして描くのが普通であったが、そのイメージに反して、暴力を恐れる普通の人間として描かれている事にある。また協力者が真っ先に逃げ、守ろうとしてくれるはずの町の住民が関わり合いを恐れて協力や手助けを拒み、しかもその日結婚式を挙げたばかりの新妻からも見放されて孤独感に苛まされながら1人で決闘に向かう姿を描いている。共に決闘に加わってくれる人を探して町を彷徨う保安官の姿に、それまでの西部劇にあったヒーローもそして共に戦うという友情も開拓者魂もない」。とあるが、のちにマカロニ・ウェスタンで名をあげるリー・バン・クリーフを悪党四人の中の一人にみつけたことは、なんだか得した気分になった。
それはともかく、保安官役のゲーリー・クーパーはこの作品でアカテミー主演男優賞を受賞しているのだが、前記解説の中にある「共に決闘に加わってくれる人を探して町を彷徨う保安官の姿」が、私が観た限りではもっとも印象に残っているシーンだ。新妻(グレース・ケリー)の助けもあって、みごと悪党四人を倒して、町を二人して去っていくのだが、その行く手に何の希望も感じさせない、フレッド・ジンネマン監督の演出もみごとだ。あたかも、アメリカの未来を暗示させているかのようにだ。私の予想では、おそらくこのアト、初老の保安官(辞めたんだけど)は、年の離れた新妻のもとで、鬱病になり、自殺することになると思われる。
『イスラム国』という集団が、何やら中世の欧州が世界に対して行なったような、宗教をbackboneにした蛮行、残虐行為を中東で展開している。これに対して合衆国は、アホの一つ覚えのように空爆だ。合衆国民はそいつは支持しているが、地上戦には反対で、もちろんこれはイラク戦争、古くはベトナム戦争の暗い影によるものだということは明白だ。
中世でなくとも、近代ロシアの革命集団がやろうとしていたトロツキズムの世界同時一斉革命も、似たようなことになったかも知れない。とはいえ、スターリンの一国社会主義はそれより残酷な結果しか残さなかった。
要するに、宇宙人が攻めてこない限り「戦争はアカン」のだ。
しかし、世界は「真昼」だ。『真昼の世の夢』だ。(これ、タイトルに使えそう)。
私は「孤独感」とかがありていにいうと「ナイ」人間なので、たぶん、そういうものがあったら、逆に鬱病にはなっていなかったろうと思う。
人間が「孤独」なのはアタリマエのことだし、「孤独感」というのは私にとっては「退屈」に過ぎないことだし、ゲーリー・クーパー演ずる保安官が感じたのは、「孤独」ではなく、いうなれば「絶望」だ。映画の内容からいえば、神にも絶望している。
「希望という名のわたしを訪ねて」、私は、なんだかワカラナイすべてのものへ問いかける。そういうことを仕事に選んだ。それが劇作だったことは、偶然の絶対性としかいいようがナイ。
さて、お午だ。本日のランチは焼き飯。もちろんビール。
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