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2014年4月

2014年4月28日 (月)

宣伝です。

先日、シスカンパニーへの書き下ろし 「グッドバイ」で鶴屋南北賞を受賞し た、元プロジェクト・ナビ作/演出の北 村想と、OSM戯曲賞大賞受賞者、元劇 団Ugly duckling作家の樋口ミユの頓狂 コンビがお贈りする、題して
『ゆりかごの夕べ』
生音楽を聴きながら、お酒をちょっと嗜みながら、夕暮れのひとときをお過ごしください。

Guitar Alive vol.2
「ゆりかごの夕べ 記 憶の旅 ひと世の夢」
作:出演: 北村想 and 樋口ミユ
日時:2014年5月23日(金)
19:00受付開 始+開場/19:30開演
会場:カフェ+ギャラリーcan tutku[ジャン・トゥトゥクー]
料金:1,500円 ※1ドリンク付き
予約/告知blog:
http://blog.livedoor.jp/guitaralive/

2014年4月22日 (火)

色即是空、空即是色

『般若心経』は『大般若経』のいいとこどりなのだが、要するに「般若」とは「智慧」のことだから、それを「お経」にしたものだ。で、「お経」とはそも、ナンナノかというと、当初、釈迦の教えは口伝(くでん:口で伝え、文字に残さない)だった。これが後世、誰にでも読めるように文字になったものだ。従って、釈尊それ自体のコトバではナイ場合は多々ある。多々あるからお経も多々ある。
御託終り。
以前にもここに書いたことがあると思うが、『般若心経』において、色即是空、空即是色というコトバはパラ反復に該る。口語訳すると「物体、事象は、一時的な現象にしかすぎない、一時的な現象は、事象であり、物体だ」。
つまり実態として存在するものではナイが、現象としては存在する(して、消滅する)という意訳になる。その一時的な現象の生ずる要因は無明の持つ「妄想」だ。よって、そのようなものにココロを猿動させても真理からは遠のくだけだ。という理、法になる。
とはいえ、生ずるものは生ずるのだから、たとえ一時的な現象ではあっても、生物学的、物理学的には、散逸構造を持つ。つまり、コヒーレンスからコヒーレントへと自己生成する可能性は否めない。人間という生命体はこれを避けられない。
簡単にいう。「腹がたったら、怒ればイイのだ。怒鳴り散らせばイイのだ」。で、腹立ちも怒鳴り散らしも、一時的な現象だから、ネ。と、嘯けば、それでイイ。
ここで、マチガッテはイケナイのは「叱る」と「怒る」はチガウということだ。「叱る」には慎重にならねばならない。慎重にならねばならないが、これも一言でいう。
「自分に出来もしないことを鑑みず、ひとを叱るな」これ、「空」より生じた「色」即ち「妄想」「妄動」でしかナイ。

2014年4月18日 (金)

科学、科学的、と、

世間を賑わせている(というか、マスコミが煽動してんだけど)例のS細胞、女性リーダー、男性監督者、二人、相次いでの記者会見。
感想。・・・科学は何処にもなかった・・・。科学的(というより、そんな感じ)なことはお喋りになったが、タレント、アイドルの離婚記者会見と何ら変わるところなし。
あの会見で、オボカタ派、反オボカタ派なんてのが出来たらしいが、ほんとのところは庶民大衆は「科学」はどうでもイイんじゃねえのかな。女の涙がどうだとか、男のイイワケがどうだとか、「男(おじさん)は涙に弱いからダメなのよ」「女(おばさん)はすぐ嫉妬するからダメなんだ」。で、「科学」はどうなった。
おらよ、もっと科学的な会見があるのかと思ってたぜ。
「おまんこはあります。200回もやりました」
「彼女のおまんこは、充分に味わっていく価値がある」
と、何処がチガウのよ。
こういうことを書くと「不真面目な」と叱られるのだが、parodyとしては、こう書くのがもっともオモシロイんじゃないのかな。
理研て、ワカメちゃん作ってる会社かと思ってた程度のもんですから、私ゃ。

2014年4月12日 (土)

小悟

私には「嫁」が在り「母親」が在り、「私」が在る。と、そう想っていた。
しかし、そんなふうに自分と他者とを「分けて想う」ことは妄想だった。
「嫁の中に母親が在り」「母親の中に嫁が在り」「私の中に嫁と母親が在る」。
分けて考えることは必要だが、いくら分けても、ほんとうは「一つ」なのだ。
嫁の言行、母親の言行、私の言行、これらに苦慮したり、喜んだり、されど、これらは、「一時的な現象」にしか過ぎない。これを仏のコトバで「空」という。『般若心経』における「空」の意味がイチバン私を悩ませたが、(つまりなぜ「無」ではナイのか)「空」とは、「一時的な現象」をいうと、識るに至った。
たとえをいえば「何も無い空間が在る」ということだ。空間は在るのだが、空間には何も無いのだ。それを、一時的な現象はあるが、それらは「空」に過ぎない。という。
すなわち、すべては一時的な(そのものの)現象に過ぎない。この「そのもの」を『般若心経』では「色」と称する。従って「色即是空、空即是色」。
『般若心経』もまた「書かれたもの」に過ぎぬ。といって、「書かれたもの」自体を単なる文字として否定しても、「書かれてあること」をココロすることは否定出来ない。
何も彼も、分けて考えることは可能だし、必要なのだが、それに「疎外」されることを「苦」というのだな。何も彼も一時的に成り立ちはする。それを「縁」という。されど、それは不変に固定的なものではナイ。
「尋ねず求めず」「棄てず取らず」、そういうつもりでいたが、まだまだ未熟な修行者だった。ナア。

2014年4月 9日 (水)

けったいなミステリ作法

お約束どおり(って、誰に約束したワケでもナイが)長編ミステリ小説(なんしろ、応募規定が350~600枚だから)を書いている。どうにか四分の一ほど書けた。(500枚前後になる予定)で、やっと、話がわかりかけてきた。謎が多く出てきた。構造がハッキリしだした。犯人らしき者の見当がついてきた。
てなことを書くと、いったいそりゃなんだといわれそうだが、プロット決めて、ストーリー決めて、謎と解明を決めて、真相決めて、犯人決めて書き始めるでは、単純な写像にしかならないので、私の場合は、ともかくシチュエーションと、キャラクターだけ用意しておく。で、勝手に謎を提出する。探偵はそれを考える。(要するに私が考える)いってみれば、ロールプレイング・ゲームをひとりでやっているのに近い。
書いている私にもワカラナイのだ。何故、何故、何故、如何に如何に如何に。ところがその答(理由)がインスパイアされる。大慌てでメモ「そうだったのか」「おもしれえ」。そうやって、次第に無軌道に散らばったピースが収まっていく。
思わぬ登場人物が出現する。あるキャラクターが、これも思わぬ行動に出る。まったく違った秘密を持ったキャラに変わる。
物語は、散逸しながら、変容され、創造されてまとまっていく。
困ったことにパソコンのスイッチを切っても、脳髄が、書き続けるので、終わらない。疲れる。食欲が落ちる。眠りが少なくなる。加速度が増していくぶん、私の寿命が縮んでいく。まるで、相対性理論。そのうちブラックホールになるかも。

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