狙撃手
現在は、狙撃手も戦時において独りで闘うという者ではなくなったらしい。たいていが二人一組で、いわゆる情報(状況)設計をするサブ・マスターが一緒らしい。標的までの正確な距離、風速、風の変わり具合、気温、その他を瞬時に計算(計測)して、狙撃手に情報を伝える。そのために横にくっついているふうになる。
とはいえ、中には、気が散る、集中力が劣化するという理由で、このサブ・マスターを使わない者もあるようだ。私もそうだと思う。
私には、機関銃どころか、自動小銃(映画『セーラー服と機関銃』でヒロインが使ったのは、機関銃ではなく、自動小銃だ)を振り回す力もナイので、狙撃手として闘いたい。
意外と狙撃には自信があるのだ。まあ、チャチな空気銃での話だが、高校生の頃、本格的な射的場があって、25メートルばかり離れたところにマトがある。10発撃って、ボタンを押すと、その円形の標的(マト)が機械で近づいてきて、中心が10点、の点数合計がワカルようになっていた。当初は80点ばかりが何度か続いたが、100点がとれるようになった。それからは、撃ち終わって円形のマトを観ると、穴が一つしか開いていないことに満足を覚えるようになった。中心の10点といえど、五円玉くらいの大きさはあるのだが、あたかも一発しか当たっていないがごとくに、10発の弾は、一点に全部命中している。
私は、本気で殺し屋になろうと思った。裏の仕事としては悪くない。そんなことをいっても信じないだろうけど。
昼間は自転車屋かなんかしていて、裏の仕事が入ったら、狙撃手として働く。
そういう生き方、いいねえ。
だから、書くことも、私にとっては狙撃だと、私は狙撃手として仕事してると、そんなふうにいいたいなあ。
幾万の兵を持つよりも、独りで闘うということのほうが、私は好きだし、そんなときの私は心強いし、闘える。
長生きは出来ないが、犬死にしてたまるか。
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