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2014年2月 2日 (日)

私とは[何か]

タイトルのとおり、私とは[何か]という存在だし、そういう対象だ。つまり[何か]なのだ。コトバを変えていえば「私という[何か]デアル」し「私という[何か]ガアル」ということだ。そういう[何か]という存在、対象に「何か」と問いかけても詮ないことだ。それは、たとえば「酒」に「酒とは酒か」と問いかけているのと同じだからだ。
私に問いかけるのに答えるのが私なら、時にはいいふうに、時には悪いふうに答える(応える)しかナイ。
ただ、「酒」という存在、対象、をメタファーでいうことは出来る。「酒は百薬の長」とか、「酒は最も信じられる友人」とか、そんなものはいくらでも出来る。それと同じように、「私」という存在、対象、もいくらでもメタファーで語れる。「私は世界(自然)の表現であり、世界(自然)は私の表現である」という命題もまたメタファーだ。それは、拙著『恋愛的演劇論』に記した。
仏教(たとえば禅宗)でいえば「私は[何か]ではナイ」という無常論になる。諸行無常、諸方無我、だからだ。
また、呼吸ならば、がんばれば意識的に1分くらいは止めることが出来るが、心臓の拍動をいくらがんばっても意識的に1分止めることは不可能だ。(医薬品でなら、仮死状態をつくり出すのに、これは可能らしいが)。つまり「脳意識は身体と互いに互いでありつつ、互いに関係し、了解し、互いに変容させる」
宇宙というものは、私を含んで、宇宙という。ということは論理的にいうならば、私の死んだ(消失した)宇宙は、私の存在した宇宙とはチガウということになる。そうなるんだから、どうチガウんだといわれても、しょうがない。
死後の世界、来世、あの世、というものが存在するのか否か、釈迦はこれを考えてもワカラナイ(答の出ない)ものは論じても意味がナイと退けたが、なんでワカランのかというと、理由は簡単で「あってもオカシクはないし、なくてもオカシクはない」につきる。
科学的根拠のようなものを持ち出すなら、何事も対称性で成立している宇宙なんだから、「この世」があるなら「あの世」もあるだろうということも、いえなくはナイ。文学的にいえば「生まれて来たのだから、死んで去る」ところもあるだろうということだ。ともかくも、その96%が何であるのかがまだワカッテいないというのが宇宙なんだから、その中には「あの世」くらいあっても不思議ではナイ。
そのあたりは、私はほんとうにどうでもイイと思っている輩だが、輪廻転生だけは勘弁してもらいたい。「これが人生か、よしもう一度」と、ニーチェ先生のいうような気力はナイ。人生はなるほど、善し悪し丁度、オモシロ可笑しかった。だが、もうこれきりにしてもらいたいという念のほうが強い。まだアト何年生きるのか寿命のことは与り知らぬが、こういうものは一度でイイ。理由は「何にせよ、疲れる」。
天界というところもいろいろと階層があるらしく、最上階は「有頂天」と称され、ここに生まれ変わったひと、その住人は、最も短命でも九百万年の寿命があるといわれる。しかし九百万年だろうと一億年だろうと、終りはあるのだ。で、終わるとどうなるかというと、地獄の十六倍の苦しみが待っている、ということになっている。終わったら何処かへ行かねばならない。これを輪廻という。疲れるどころの騒ぎではナイ。
「生まれてきて良かった」、そう思えれば、アトは野となれ山となれ。

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