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2014年2月

2014年2月28日 (金)

ツィートの如く

従軍慰安婦について、韓国が「性奴隷」というコトバをよくが用いるが、奴隷とsexして快楽あるんかな。それをsex専用の女性と解しても、そういう女性に性欲わくんかな。まあ、これは個人的趣味の問題でしょうけど。
こういう事柄については、あらためて論じてみますけど。

2014年2月26日 (水)

狙撃手

現在は、狙撃手も戦時において独りで闘うという者ではなくなったらしい。たいていが二人一組で、いわゆる情報(状況)設計をするサブ・マスターが一緒らしい。標的までの正確な距離、風速、風の変わり具合、気温、その他を瞬時に計算(計測)して、狙撃手に情報を伝える。そのために横にくっついているふうになる。
とはいえ、中には、気が散る、集中力が劣化するという理由で、このサブ・マスターを使わない者もあるようだ。私もそうだと思う。
私には、機関銃どころか、自動小銃(映画『セーラー服と機関銃』でヒロインが使ったのは、機関銃ではなく、自動小銃だ)を振り回す力もナイので、狙撃手として闘いたい。
意外と狙撃には自信があるのだ。まあ、チャチな空気銃での話だが、高校生の頃、本格的な射的場があって、25メートルばかり離れたところにマトがある。10発撃って、ボタンを押すと、その円形の標的(マト)が機械で近づいてきて、中心が10点、の点数合計がワカルようになっていた。当初は80点ばかりが何度か続いたが、100点がとれるようになった。それからは、撃ち終わって円形のマトを観ると、穴が一つしか開いていないことに満足を覚えるようになった。中心の10点といえど、五円玉くらいの大きさはあるのだが、あたかも一発しか当たっていないがごとくに、10発の弾は、一点に全部命中している。
私は、本気で殺し屋になろうと思った。裏の仕事としては悪くない。そんなことをいっても信じないだろうけど。
昼間は自転車屋かなんかしていて、裏の仕事が入ったら、狙撃手として働く。
そういう生き方、いいねえ。
だから、書くことも、私にとっては狙撃だと、私は狙撃手として仕事してると、そんなふうにいいたいなあ。
幾万の兵を持つよりも、独りで闘うということのほうが、私は好きだし、そんなときの私は心強いし、闘える。
長生きは出来ないが、犬死にしてたまるか。

2014年2月23日 (日)

ソチ吹かば思ひおこせよ梅の花 主なしとて涙忘るな

ここで、梅の花というのは、中国のまともな人民の人々のことをメタファーで述べているといっていいでしょう。とすれば、主というのは、銀盤の乙女をいっているともいえますが、敢えて、共産主義どころか、いまでは、ファシズムと何処がチガウねんとでもいいたくなるような政治屋たちのことと解することも出来ます。つまり、国家なんぞ亡んでもイイのです。というか、マルクスは「国家権力の存在の必要性は唯一国家を消滅させるシステムのためにある」てなことをいうてますね。
で、ソチで何が吹いたのか。それに中国人民が、どうツィートして、涙したのか。もはや何の説明も不要であります。
日本人民も、彼女に四年後、また出てくれというのは、それは強欲にしか過ぎません。なぜなら金メダルとるまでやめるな、といってるのと同じだからです。
同じく韓国人民も、金メダルがロシアなんだから、審判の判定にたいしてブーイング(以上のことをやろうとしてますが政治屋は)はもういいじゃナイですか。あんなもの開催国にプレゼントしちゃいなさい。
まるで、「事実は劇画よりドラマチックである」でした。二人の少女が長年のライバルとしてしのぎをけずった、このドラマは、語り継がれるでありましょう。念のためにいっておきますが、ここでいう劇画は特定の、たとえば『ガラスの仮面』のような、稚拙な演劇マンガをいっているのではありません。
あたしゃ、誰だこのドラマを作・演出したヤツは、と、思わず声に出してしまうところでした。
天晴れでした。

2014年2月21日 (金)

情操教育

もしおまえが 正しさとは何かを知りたければ
おまえは 悪を学ばねばなりません

もしおまえが やさしさとはどういうものかを感じたければ
おまえは 酷しさもおぼえねばなりません

もしおまえが 愛というものを手にしたければ
おまえは 憎しみも受け入れねばなりません

もしおまえが 勇気を身につけたければ
おまえは 臆病にならねばなりません

もしおまえが 潔くなりたければ
おまえは 狡さをみとめなければなりません

もしおまえが 慈しみを受けたければ
おまえは 病むことをおそれてはなりません

もしおまえが 生きたければ
お前は 死ぬ運命を避けてはいけません

おまえがどう望もうと たいていのにんげんは
学んだ悪に染まり 酷しく 憎しみにあふれ 臆病となり 
狡くたちまわり 病むものに気づかず 生きるために
ひとを殺めるのです

ですから おまえのほんとうに学ぶべきことは この絶望なのです
絶望に対する覚悟からしか やさしく 愛を持ち 勇気に満ちて 
潔く 慈しみ深い 反抗は生じてきません

ただ ひらひらと 白く美しく降る雪ですら
憎まれることは あるのです

2014年2月16日 (日)

ソチが、あれか。

上村愛子のモーグル4位にはちょっとウルウルとしたのであります。5回目の冬季五輪。よくぞまあ4位をkeepしたと思うのです。誰もがいってんです。「ありゃ、判定がヘンだよな」。うちの母親もそういってたんです。が、審判の判定は正しいんだからショウガナイ。それは上村愛子が最もよく知っていたことのようでして、つまり判定の基準が変更されてることなんか、われわれ市井のものには前もって情報がなかったからねえ。知ってて、これが最後だからと自身の滑りを貫いて、かつ、4位だから、試合には負けたが勝負には勝ったてのは、ああいうのをいうんだろうなあ。ああでなくっちゃなあ。あんなふうに書きたいと震えたのであります。あんな仕事を続けたいと切に願うのです。
ジャンプの高梨沙羅は、この先があればイイなと、願っておくです。競技会場に入るときも、ちと、目がヘンだったんですが、4位で敗戦の弁を語るとき、目がややトンデらしてまして、気丈に語ってるようにみえて、私のような精神病人からみると、おっ、やべえとなるんです。なんてったって、まだ子供なんだから、トラウマにならなければイイなと。
そういや、どうもソチ五輪は、子供オリンピックみたいだなあ。スノボのハーフパイプだって、ありゃ中学生でやんしょ。でも、親は銭もあるようだけど、いい躾けをしてらっしゃるようで、弟が銀メダルの兄貴に「とにかく怪我がなくて良かった」とコメントしたのには驚きましたな。将来は、弟のほうが、どんな分野ででか、いい仕事をしそうな気がするのであります。
カーリングは、頭脳戦だし、チームプレーだし、冬季五輪の種目の中では最も好きな競技なんだけど(とはいえ、前回の冬季からの俄ファンですけど)、あの競技は、氷上のチェスとかいわれているようだけど、わたくしにいわせれば、氷上の囲碁とビリヤードでんな。次の冬季五輪あたりには、けっこうランク上がってる気がします。なんか、日本人の得意としている分野のようでして、将来は必ずトップに立てる競技です。
ジャンプの葛西オヤジ、「目標が出来た」と、銀メダル下げていってるところなんか、全国の中年諸氏に勇気を与えたんじゃナイでしょうか。
さて、いよいよ女子フィギアですが、ロシアの15歳、キャンドルスピンにどうやったら勝てるか、なんてのは、素人考えのようでして、プロの採点はまたベツモノのよう気がしないでもナイんですが、しかし、どうやったら勝てるんかな。わたくしの趣味からいうと、「悲壮」でんな。にこやかな滑りって、わたくし、ほんとは好きじゃナイです。愁嘆なる演技があってもイイじゃナイですか。そういう滑りを観たいと思うです。

2014年2月 2日 (日)

私とは[何か]

タイトルのとおり、私とは[何か]という存在だし、そういう対象だ。つまり[何か]なのだ。コトバを変えていえば「私という[何か]デアル」し「私という[何か]ガアル」ということだ。そういう[何か]という存在、対象に「何か」と問いかけても詮ないことだ。それは、たとえば「酒」に「酒とは酒か」と問いかけているのと同じだからだ。
私に問いかけるのに答えるのが私なら、時にはいいふうに、時には悪いふうに答える(応える)しかナイ。
ただ、「酒」という存在、対象、をメタファーでいうことは出来る。「酒は百薬の長」とか、「酒は最も信じられる友人」とか、そんなものはいくらでも出来る。それと同じように、「私」という存在、対象、もいくらでもメタファーで語れる。「私は世界(自然)の表現であり、世界(自然)は私の表現である」という命題もまたメタファーだ。それは、拙著『恋愛的演劇論』に記した。
仏教(たとえば禅宗)でいえば「私は[何か]ではナイ」という無常論になる。諸行無常、諸方無我、だからだ。
また、呼吸ならば、がんばれば意識的に1分くらいは止めることが出来るが、心臓の拍動をいくらがんばっても意識的に1分止めることは不可能だ。(医薬品でなら、仮死状態をつくり出すのに、これは可能らしいが)。つまり「脳意識は身体と互いに互いでありつつ、互いに関係し、了解し、互いに変容させる」
宇宙というものは、私を含んで、宇宙という。ということは論理的にいうならば、私の死んだ(消失した)宇宙は、私の存在した宇宙とはチガウということになる。そうなるんだから、どうチガウんだといわれても、しょうがない。
死後の世界、来世、あの世、というものが存在するのか否か、釈迦はこれを考えてもワカラナイ(答の出ない)ものは論じても意味がナイと退けたが、なんでワカランのかというと、理由は簡単で「あってもオカシクはないし、なくてもオカシクはない」につきる。
科学的根拠のようなものを持ち出すなら、何事も対称性で成立している宇宙なんだから、「この世」があるなら「あの世」もあるだろうということも、いえなくはナイ。文学的にいえば「生まれて来たのだから、死んで去る」ところもあるだろうということだ。ともかくも、その96%が何であるのかがまだワカッテいないというのが宇宙なんだから、その中には「あの世」くらいあっても不思議ではナイ。
そのあたりは、私はほんとうにどうでもイイと思っている輩だが、輪廻転生だけは勘弁してもらいたい。「これが人生か、よしもう一度」と、ニーチェ先生のいうような気力はナイ。人生はなるほど、善し悪し丁度、オモシロ可笑しかった。だが、もうこれきりにしてもらいたいという念のほうが強い。まだアト何年生きるのか寿命のことは与り知らぬが、こういうものは一度でイイ。理由は「何にせよ、疲れる」。
天界というところもいろいろと階層があるらしく、最上階は「有頂天」と称され、ここに生まれ変わったひと、その住人は、最も短命でも九百万年の寿命があるといわれる。しかし九百万年だろうと一億年だろうと、終りはあるのだ。で、終わるとどうなるかというと、地獄の十六倍の苦しみが待っている、ということになっている。終わったら何処かへ行かねばならない。これを輪廻という。疲れるどころの騒ぎではナイ。
「生まれてきて良かった」、そう思えれば、アトは野となれ山となれ。

2014年2月 1日 (土)

西のほうへ

/Sです。
草鞋ですが、
今週からちょいと入院しますんで、たぶん暇な入院期間に、編んでみようかと思いました。
挫けたら早めに報告します。(1月7日)/

RE:/草鞋の件ありがとうございます。けれど、くれぐれもご無理はなさいませんようにご自愛くださいませ。/

RE:/Sさん、ありがとうございます。くれぐれも体調優先でお願いします。何かあればご連絡ください。

/支部の皆様、稽古行けなくてすみません。
こちらは順調に回復しております。
文士劇の小道具ですが、提灯と提灯立てはIさんに依頼しました。碁石と碁盤はIさんのつてでお借りします。
ドライフラワーはKさんが椿を持ってきてくれます。あとは稽古場でご相談ください。
折り畳み傘は私が持っていきます。
わらじは私が編みました。わらぞうりでなく、わらじです。
箱は、Kくんが持ってきてくれました。あとは稽古場でご相談ください。
女4の傘は、私かIさんで何とかします。
座卓、座布団、湯呑は文化の家からお借りします。
菓子器はKさんが持ってきてくれます。
タバコは市販のもので。
ライターは、現在のZIPPOだといかにも男ものなので、もう一考と思うのですが、いか
がでしょうか。
T-3タイプは、委員長が厳重保管中のはずです。
何かご不明な点は、お尋ねくださいませ。
末尾ですが、ご心配いただいたみなさま、ほんとうにありがとうございます。(1月16日)/

/東海支部の皆様、ご連絡が大変遅くなり、申し訳ございません。
どしのぎ祭りまであと数日となり、これはいよいよお伝えせねばと思いメールをいたし
ました。
私、先週の土曜日に退院をし、そのまま稽古に参加するつもりでおりました。その予定
で通院計画もたてておりました。
ところが21日の外来で癌の転移が複数見つかり、そのまま再入院となってしまいました。
この時期に降板することがどれほど皆さんにご迷惑をかけるかは十分わかっております。
私もとても悔しいです。
本当に、本当に申し訳ありません。
小道具のわらじ、番傘、折り畳み傘、私が使う予定だ衣装。かつら等は私の自宅にあり
ます。Kさんあたりが取りに来てくださるととてもありがたく思います。
何かご不明な点は、何時でもメールをくださいませ。
おそらく劇場へうかがうことも叶わないでしょうが、みなさんがしのぎを削るさまを想
像いたします。(1月22日)/

1月24日、18:43 S、永眠
1月31日、20:00 文士劇上演、Sの初七日

この文士劇は、日本劇作家協会東海支部のイベント『どしのぎ祭』のオープニングとして上演された。ホンは、依頼されて私が書いた。なるべくみんなそのまま登場出来るようにという注文に、それなら、situation は私の通夜がイイだろうと、そうした。タイトルを『通夜の雨』とした。
Sは、その通夜に夜半、訪れる謎の女の役だったが、訪れるはずの彼女は、西の方へ一足先に去ってしまった。通夜という situation で、もう来ないものとなってしまったSの到来を待たねばならない、劇作家文士の胸中は如何ばかりだったろうか。
立ち稽古に相手役だった、SIは「あんなイイ演技は観たことがナイ、すっごく良かったんですよ」と悔しげにいい、Tはすぐさま、自作次回上演の出演offerをしたという。急遽、その役を引き受けたKAは、Sの柩の前で、1時間、せりふを入れる特訓をした。
私はSを葬る会では、香典も供養の花も出さなかった。私は私なりに私の業を深く感じていたから、Sが編んでいたわらじを引き取らせてもらいたいと「わらじ銭」を用意して申し出た。とはいえ、夫君にとっても思い出の品になるものだろうから、ダメならそれでもイイと思っていた。ところが、どういうワケか、わらじは、二足編まれていた。用意すべきは一足だったのだが、Sは、わらじを男ものと女ものの二足編んでいたのだ。おそらく一足は自らが履くべきと、覚悟していたのだろう。

3・11いや、2009年1月17日以降、私たちは、ひとの死というものを数で勘定することをおぼえてしまった。1・17から始まったNHKの報道で、毎日同じ男性アナウンサーが、被害者、被災者、死亡者の数を読み上げていたが、ある日突然、「私は毎日、亡くなった方の数を申し上げていますが、この何千何百という数には、ひとりひとりの、それぞれの人生があったワケで、・・・」と、そこで嗚咽して、番組は終わった。このときばかりは、私はNHKを見直した。そのことに気づかないでいた自分を恥じた。
NHKは公共放送なので、なにごとも「公平」に扱うことをその方針としているらしいが、ひとの死に「公平」などあるワケがナイ。「固有」があるだけだ。

私は韓国人も朝鮮人も好悪がどうのという対象にしたことはナイ。韓国人にだって好きなものもいればキライなヤツもいる。それは日本人にも同じようにいえることだ。ただし、朴 槿惠大統領だけは、こういう政治屋だけは、許せない。慰安婦という存在を一括り(集合数)にして、政治に利用する根性が許せない。慰安婦もまた固有の存在であることはいうまでもナイことだ。

しかし、私たちもまたこの日本で同じことをしているのだ。被災地、被災者という集合数をつくり(一括りにし)、ひとを数で勘定して、それが固有の存在だということを忘れてしまっている。被災地のためになにが出来るか、被災者のためにナニが、あのな、被災地というのは日本であり、被災者は私たちだ。私たちはこれを死体を数える数の中に忘れ去るべきではナイ。

Sの「固有」の死は、そこまで、私を引っ張り戻してくれた。

わらじ銭をどうぞ
あんた わらじを履くんだろ
西の方へ行くんだってな
あのな これは内緒だけど
わらじ銭は 六文にした
川を渡る渡し賃は三文だ
だから
残りの三文で ズルして 帰っておいで
とはいえ
こっちより あっちのほうが イイのに決まってんだろうけどナ

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