真っ釈迦さま
avecビーズの来年の公演「evolution 12」『And in the End〈今日は死ぬのにちょうどいい〉』の冒頭は以下のようになっている。(ま、いくらなんでも次の次の次の作品まで脱稿しているワケではない。扱ってみたい motif は「アフリカ的段階」からみた演劇史の内在と外在。これは、ナンシー・ウッドの「今日は死ぬのにもってこいの日」からサンプリング。タイトルも、そこからきている。それと「失語症と演劇」。これは先日ブログに書いたものが動機になっている。そうして「jazz」。ブラック・アフリカンのココロの表出としての音楽だ。いまは、それらのゆらぎがたゆとうているだけだ)。
☆
(前略) と、圧倒的な夕陽。
女1「陽が沈む。しかし、陽はまた昇る。
女2「すごい夕焼けですね。
女1「こんな夕焼けでも、明日になったら、雨だって降る。
女2「そういう日もありますね。
女1「(話題急転して、自らに語るような口調で)釈迦は、菩提樹の下(もと)で悟りを得たとされているが、ある仏説によると、享楽も苦行も否定して、瞑想を選んだ釈迦は、自ら設定した問題である四苦八苦の超克について、なおも納得のいく答が得られず、半眼を閉じながらも、内心は穏やかではなかった。二十九歳の出家から時は六年を経ていた。 女2「(それを続けるように)ある日の昼下がりのことである。背中に薪の束を背負った老人が釈迦の摩訶を通りすぎんとして、釈迦に一瞥をくれながら、その背後き巨大な菩提樹をみあげた。それが数秒だったのか、数分だったのかはワカラナイ。釈迦は半眼のまま、老人を観ていた。すると老人は、いま初めて、釈迦に興味を持ったかのように釈迦に視線を移して、こういった。
女1「大きな菩提樹じゃなあ。それは、独り言だったのかも知れぬ。あるいは、釈迦に向けてのコトバだったのかも知れない。老人は、それから、聞こえるか聞こえぬかほどの小さな声で、何かを呟いた。釈迦はそのコトバを~小さきひとよ~と聞いた。釈迦は、目を開けた。しかし、老人の姿はもうなかった。ある仏典、仏伝では、この老人を梵天の化身と記してあるものもあるが、後の仏教学ではこの解釈は否定されている。
女2「釈迦は立ち上がり、菩提樹をみあげた。
女1「と、朽ちた葉が一枚、舞落ちてきた。
女2「釈迦は菩提樹に訊ねた。
女1「菩提樹よ、汝も何れ枯れる運命か。
女2「菩提樹は何も答えなかった。
女1「再度、釈迦は菩提樹に問うた。
女2「すべてはこの枯れ葉のごとく滅するのか。
女1「菩提樹は、口を開いた。こう、答えたのだ。お聞きなさい、小さきひとよ。その枯れ葉は大地に落ちて、やがて大地の肥やしとなるであろう。一枚の枯れ葉ですら、病んだ大地を肥やすのだ。癒えた大地には、新しい芽がふくだろう。
女2「では、繁る緑の葉は何のためにある。
女1「これこそ、命の力だ。
女2「しかし、汝も枯れゆくのではないか。それは、何ゆえだ。
女1「葉っぱどもがみな死んでイケルようにだ。
女2「ここに至って、釈迦の修行は終わった。彼は、悟りを得たのだ。
☆
また、主筆、しばらく留守にするが、この前後の釈迦の偽伝を開店休業のアト、書いてみようかと考えている。
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