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2014年1月20日 (月)

現況②

「自己が、自己と自己を認識しているだけの自己、に置かれる」という事象を、もう少し突っ込んで考えてみる。つまり、事象から現象へと踏み込んでみる。これにはもちろん、「舞台初日に観客の前に立たされて、真っ白になっているような状況」の役者の事象とも関係してくる。私の場合、けして「憂鬱」になっているのではナイ(と、判断しているが、周囲からは、憂鬱そうにみえるだろうとも、ワカッテはいる)。私は身体症状としての鬱病に難渋しているのだから、「自己が、自己と自己を認識しているだけの自己、に置かれる」ということをいま少し具体的に述べれば、私(という自己)は、私の身体症状という表出とだけ関係・了解を結んでいることになる。私の自己認識は、「鬱病の身体症状で苦しんでいるところの自己」ということになる。この場合、他者(との関係・了解)などの環境界は、埒外に置かれる。卑俗にいうなら他人のことはどうでもイイということだ。これが深度を増すと、他人のことを慮れないということに対しての罪責となるのはいうまでもナイ。そこに至ると、責任のとりかたを私は私に訴求するだろうから、「死」の選択を余儀なくされるだろう。これは、希死念慮というものとは位相がチガウ。そこで、戦略的に、私は、私の死がもたらすだろう、他者の悲哀や惜別を対置させて、その「死」を避けようとしている。かんたんにいうなら「生きていたほうが他人にとってもマシだよ」といいきかせることだ。この場合の他者は、現存、故人を問わない。志半ばにして、非業の死を遂げた、故人としての知己に申し訳がたたない。と、私は、それを命綱の一本として握っている。死んだものの分まで生き延びねば、という、戦略だ。しかし、この戦略には不備がある。即ち「そうまでして生きて、ナニをするの(何が出来るの)」という、現存するものたちの疑義や、故人たちの妄念の問いに明確に答えることが出来ないということだ。これはこれで、さらなる債務を背負うことになる。この債務は負債だし、そのまま、罪責感へと通じていく。
もし、私がそのごとく、自己と自己の表出(身体症状)だけに関係と了解を結んでいるとするならば、自己表出=自己疎外の等式から抜け出すには、身体症状とは無関係な加速度を表出に足し算すればイイ。つまり「疎外≠表出+加速度」だ。「表出+加速度」は何らかの加速度をもった表現を意味するから、その、何らかの加速度をもった表現が必要になる。これ(この加速度)は「等価原理」からそれと同等のものでもイイ。「慣性重力」でも「加速度重力」でもカマワナイ。つまり、私はその力によって、自己の表出である自己(身体症状と関係、了解している自己)を「引っ張りだして」しまいたいのだ。ちえがていえば「引っこ抜きたい」のだ。
その具体的方法を思案する前に、なぜ、私(自己)は、単に「身体症状」という表出に囚われてしまったのかを、もう少し順序だてて考えてもイイ。

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