吉本学派の躓き
吉本隆明さんのファンは多い。それが、吉本さんの人柄に向かってであるか、吉本思想に対してであるかは千差万別だが、吉本主義者、吉本学派、吉本エピゴーネンと、形態に多少のズレはあるにせよ、吉本さんを追従してきた者、人々は多く存在する。この人々が、躓く。ありていにいうと、吉本さんがワカラナクなる、あるいは、不信、不審。この契機は大まかに二つある。一つは『ハイイメージ論』の解りにくさ。もう一つは、極めて鮮明な、吉本さん自身のオウム事件に対する麻原擁護。
不出来な吉本学徒の私からいえば、前者については、つまり『ハイイメージ論』は、吉本さんの賃仕事だとしか認識していない。あれを、『共同幻想論』と同列に扱うのは、無茶というものだ。かといって、クオリティが劣っているということでもナイ。いうならば、何ら体系を持っていないだけだ。つまり、演繹的な理論の集積でしかナイ。むしろ、その伝でいうならば、『共同幻想論』に連なるものは、吉本さんの後年の仕事における「アフリカ的段階」ではないかと思える。これは、もちろん、マルクスの「アジア的段階」を受けての発想なのだが、ハイイメージという現代の視点の逆方向に、アフリカ的段階は読み取れるはずだ。オウム-麻原擁護に対する基盤には、この「アフリカ的段階」が存在することはいうまでもナイ。いうまでもナイのだが、どういうワケか、かの呉智英センセイまでもが、単に感情論的にしか、麻原擁護についての反駁、批評をされていない。(余談でいうなら、呉センセイの『つぎはぎ仏教入門』は、衆生、有情に対する啓蒙にも成り得ていないし、仏教者への批判には届いていない感が否めない。呉センセイにしてはめずらしく、手抜きを感じる。というか、編集者、出版社に書かされた缶詰仕事程度にしか思えない。例えば、宗教は信じないが、その有用性は認める、では話にならないのではないか。宗教の何を信じないのか、もし、それが非科学的だということならば、宗教とは、もともと信仰の対象であって、信仰には科学も、非科学的も無縁のものだ)。また、麻原擁護において、吉本アカン論、吉本マチガイ説、を、首をとったとばかりに声高に流布した連中もそれと同類と見做してイイ。私には、「アフリカ的段階」は、吉本さんの晩年における最大の収穫だと考える。これは、レビィ・ストロースの非欧州文明史観とは、まったく違う観点から、人文科学に斬り込んだものだと思える。その特徴は、吉本思想らしく、大衆の生活実態から発せられているということだ。麻原擁護と、オウム-テロとは位相が違う。オウム-テロに関しては、「固有の倫理」という概念をして、批難がなされている。この二点を、アンチ吉本は、理解できないのか、知ってて知らんふりなのか、持ち出そうとはしてこない。そういう論評は、もはや廃れた、全学連崩れの一派の得意とする論調と、何のチガイもナイ。
追い打ちをかけるように、フクシマの原発事故勃発時、雑誌『試行』の論説で原発の安全性を述べたくだりを持ち出して、吉本ダメ宣言を流布したマスコミも、マスコミらしいなぁとしかいいようはナイ。何度も書いていることだが、被災地とは何処か、被災者とは誰か、これを「風評被害」のひとことで片づけるマスコミの、いつものように何処吹く風気取りには、田作の歯ぎしりにしかならないのは承知で、唾棄している。
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