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2013年12月25日 (水)

釈迦は正しいか(続)

たぶん、読者は四苦八苦の最初に「生」とあるのを重複ではないかと思われているのに違いない。あるいは、数学の集合を使えば、(病・老・死)⊂(生)になる。(ここで死を生の部分集合にするのは微妙なんだけど)。釈迦自身も「生きることは苦しみ(思うようにならないこと)だ」といってるんだから、最初の四苦の頭に「生」がくるのは、妙なのだが、これは、「病気でなくても、老いがなくても、死ななくても、生きることは苦しみだ」と訳すしかしょうがナイ。そのアトの八苦も具体的だから、そういう具体的な苦しみがなくても、生は苦しみだ、と、釈迦はいったことになる。つまりand in the end (何事もない)であっても苦しみなのだ。
仏教は釈迦に始まる。その以前には仏教はナイ。これは呉智英センセイもそう仰っている。だから、現在の仏教がどんなに釈迦仏教から違ったものになっていても、またその過程において、さまざまな解釈による似非仏教(真言宗や禅宗だってみなそうだ)になっていても、釈迦がこの世を、人生を四苦八苦だと述べていることに異論を唱える仏教者は存在しないはずだ。
そこで「釈迦は正しいか」というタイトルの疑問にやっと辿り着ける。
もちろん、そういう疑義を呈した以上、私は「正しくない」と考えている。つまり四苦八苦には反証が出来る。順を追っていく。「生」は便宜上、後回し。
「病」-「病、病人は、看護されるという喜びを受け取る。そこに博愛のあることを享受することが出来る。かつ、癒えていく嬉しさをも。やがて、医学は病気から、痛みや苦しみを緩和し取り除くだろう」
「老」-「老いることは、未知の楽しみだ。それは好奇心を満たす。そうして、若気のいたりの恥など二度とナイことに安堵する」
「死」-「死は何事にも[終り]が在るということの安心だ。この世間(うきよ)とおさらば出来るという、ココロの安寧だ」
「愛別離苦」-「この苦しみあればこそ、芸術は生まれたといってイイ」
「怨憎会苦」-「とにかく、出逢えばこそ、怨みをはらすことが出来る」
「求不得苦」-「これがなかったら、科学技術の発展はなかっただろう」
「五蘊盛苦」-「これがなかったら、あらゆるスポーツ、そうして演劇も生まれなかったろう」
手っとり早くいえば「思い通りにならない」ことは人間にとって「アタリマエ」のことなのだ。声高に「生は苦しみだ」なんていう必要はどこにもナイのだ。そりゃ、居直りか。いいえ、いうならば「反抗」です。お前、Christianか。いいえ、そうなれないことは、拙作『寿歌』で書きました。
余談だが、最近発見されたらしいアルベール・カミュのメモに「キリスト教を信ずるには、キリスト教はあまりにも血に汚れている」とあったそうだが、これは、ほんものかどうか真贋がいまだついていない。

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