コーヒー・ブレイク
希死念慮というものは、鬱病にはよく現れる精神現象だが、あくまで念慮だから、私のばあいもこのよく現れるヤッカイものを適当に処理することは、経験上学習している。つまり希死念慮は私のばあい、直截に自死に結びつかない。ああ、またかと思う程度に留まっている。ただ、ヤバイのは、論理的に、つまり理路の上で「死ぬのが最も正しい」と判断したばあいだ。
私はかねてから準備のシアン化カリウム(いわゆる青酸カリ)1g をポケットにしのばせて、同窓会から帰ったばかりの母親に「ちょっとコーヒー飲んでくる」と声をかけて、自転車にまたがると、行きつけの河畔の喫茶店までやって来た。シアンは致死量が300㎎だから、1gなら充分で、入手の方法をここでいうワケにはいかないが、さほど面倒なルートでなくても手にいれることが出来る。ただし、要注意なのは、その効果の期限だ。この僅かの粉末を、たとえガラス瓶に入れて密封しておいても、ほぼ3年で無毒になる。液状のアンプルにしても30年。某大家のあるミステリは、ここまで書くかというほど緻密で精緻(同じか)に書き込まれていたが、一つだけ、このシアン化カリウムの効能期限だけがマチガッテいる。
嫁は仕事があるとかいっていたが、たぶん寝ているだろうと思って、メールではなく電話してみた。案の定寝ていたので「寝てな。いまからコーヒーブレイクだよん、ほんじゃあね」とだけいって電話を終り、喫茶店に入って、白い粉の入った小瓶をカウンターに置きアイスコーヒーを注文した。そこでコーヒーに混入させて飲もうとしたのではナイ。河畔には公園があるから、そのベンチで服用すればそれでヨイ。私は、頭の中で何度も思案(洒落ではナイ)を繰り返した。いろんなことがもう終わった。まだ終わってナイこともあるにはあるが。そこで「死ぬのが最も正しい」のだが、強い憤懣、怒りのようなものがやってきて、ワケのワカラヌ涙がにじんできた。
私はインタビューで観客について質問されたときはいつも「今日、死のうと思っているひとがこの芝居を観て、もう一日生きてみようかと思ってくれるためにだけやってます」と答えていたが、それは、考えてみると、私の驕りでしかナイように思えた。驕慢である。威張っているだけだ。みくだしているだけなのだ。ほんとうは、私は助けてもらいたいのだ。神や仏などという超自然のものにではなく、ひとに助けてもらいたいのだ。助かるかどうかはべつにして、私を助けようとしてくれるひとがいるから、あるいは、将来、私を助けてくれるかも知れないひとに、私の関わった作品(舞台)を観てもらいたいのだ。
私はひとを救ったことはナイが、何度も救われた。そのお返しに芝居を書いている。そういうことに初めて気がついた。遅きに失したワケではナイ。
私の死を誰がどのように悲しんでも、私にはどうしようもナイが、1gの粉末を前にしての憤りや怒りは、私に対しての異議申し立てであって、おまえの罪状は、死に値しない、おまえが死ぬことによって、おまえの罪が消えるなどというのはオオマチガイだ、それは卑怯でしかナイ、おまえはもっと償わねばならないのだ、お返しが足らんよ、という叱咤打鞭だったようだ。また、誰かが助けてくれる。そのお返しに、また書かねばならない。
表現は一種の罪業だ。それを償うために表現すると、さらに重みを増していくという刑罰だ。死刑という温情ある判決と執行まで、まだ少々時間があるらしい。
鬱気の強い日は、というふうなことを考える。
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