memory・2
島倉千代子さんが亡くなった日、ちょうど私は youtube で、『グッバイ・ジミー・グッバイ』を聴くためにウェブをつないで、そこからリンクするカタチで幾つか懐かしの「流行歌」を聴き、最後に島倉さんの歌を数曲聴いて、二階の仕事部屋から一階のリビングに降りると、母親は台所だったから、無人の部屋にテレビとエアコンだけが稼働していて、テレビはアップで島倉さんの顔写真を映しながら、彼女の訃報を語っていた。こういうシンクロニシティはままあることだが、またかいな、という気がした。いま、上で聴いてましたよ。とでも、テレビ画面に語りかけたくなる気分になった。
話の順序をもどす。『寿歌Ⅳ』の全日程を終了すると、翌日すぐに、東京で行なわれている『グッドバイ』(シス・カンパニー制作・寺十吾、演出、出演・段田安則、蒼井優、高橋克実、山崎ハコ、柄本佑、半海一晃)の読み合わせ稽古に参加するために名古屋から東京に向かった。このときすでに私は over limit で、疲労は限界をこえて、名古屋の公演中も、楽屋で寝転びながら、共同スタジオ特製の自然モニター(二階の楽屋の床に耳をつけると、一階のスタジオでの公演の様子が聴ける)で、ライブを聴いていた。上演直前の前アナのサービスはしたが、私に出来たのは、それと、大楽前の、気になる一部分のリテイクだけだ。
名古屋の宿がひどかったので、(なんしろ、名古屋最大の風俗街のど真ん中、タクシーの運チャンに行き先いうても知らんところ、一泊3900円の、ようするに、帰れなくなった客が泊まるか、お持ち帰りですぐにチョンの間が出来るような、ドアを開けると、子供用のベッドみたいなのがあるだけで、住居空間が二畳程度。再演などといいだしたら、今度はヒルトンに宿泊を条件にする)ウイスキーを毎晩あおって寝るしかナイようなところで、疲れなんざとれず、そんなこんなで、もう私は、ほとほと演劇などというのがイヤになっていて、鬱気も始まり、二度と演劇などとは関わりたくないという気分で、東京の世田谷のホテル(シアター・トラムへ3分、つまり稽古場へも5分、ここはgood)をアトにして、喫煙可能僅か五席のドトールでコーヒーすすっていたのだが、BGMで流れてきたカントリーが耳に留まり、すぐにスマホにメモをした。演劇やめるもどこへやら、これは使える、で、メモ。劇作家の業ですわ。タイトルはわからなかったが、歌詞の中に何度も「グッバイ、ジミー」と出てきたので、そんなのじゃないかなと、検索したら、ヒットした。『グッバイ・ジミー・グッバイ(Goodbye Jimmy Goodbye)』は1959年(昭和34年)キャシー・リンデン全米チャート11位の大ヒット曲で、B面の「悲しき16才」のほうは日本でヒットした。ジミーとは24才の時、自動車事故で亡くなったジェームス・ディーン(愛称ジミー)のことだ。
こんなふうにして、戯曲の題材、あるいは、motivation、または挿入歌、を拾いながら、一曲の戯曲を書いたことはよくある。『霧の中の少女』は初期の作品だが、劇団制作のものと、二人して喫茶店で「次のは、どんなんにしますかね」と、劇団レパの打ち合わせのようなものをやっていたとき、有線放送から、いきなりペギー・マーチの『霧の中の少女』が流れ出して、即座に私は、「これっ」、とタイトルを決めてしまって、相談もまとまった。映画やテレビに主題曲(歌)があるように、私は私の戯曲作品には殆ど必ず、そういう歌か曲を入れることにしている。「ものみな歌に初まり、歌に終わる」(出典、頭半分は歌謡グループ、上々颱風(シャンシャンタイフーン)、ケツ半分は花田清輝の創作歌舞伎)。塾生にも、そういうことを語るレクチャーもある。
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