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2013年11月

2013年11月14日 (木)

フィリピンはどうなった

どうなってんのか、皆目ワカラナイ。東北震災なみの被害が出ているということは報道されたらしいが、それっきりだ。今日のテレビ欄にも、たった一つ、NHKが朝4:30からのニュースの一枠に入れただけだ。もちろん、こんなものは、公共放送と名乗る政府放送媒体のイイワケにしかすぎないことは、犬にでもワカル。やがて、この日本放送協会なるものは、特定秘密保護法が成立すれば、政府の報道走狗となるのは火をみるより明らかだ。(この「火をみるより明らか」の火が、何を示すかは、出典が「書経-盤庚・上」の「惟汝含徳、不(立心偏に易)予一人、予若観火」とされているが、研究者によっては、さまざまな国の文明に同様の言明があり、「太陽」の「陽」とするものだという意見がある。私はそっちのほうが妥当だと思う)
でと、話がいつものように逸れる前に、フィリピンだ。私はフォスター・プランの里子制度で、最初の里親になったのが、フィリピンの幼女だったので、もう成人しているとはいえ、その安否が心配だ。(次はインドネシアの男子で現在はケニアの幼女)。
早速、「国境なき医師団」「フォスター・プラン」(どちらも会員)に義援寄付をした(こういうことは威張っていうことにしている。私は自身の作品のことを威張ったことはナイが、世界の子供に対する援助だけは威張ることにしている)が、今日一日のテレビもまた、料理のレシピに、食いタレ(各地の美味いものをタレントが食い歩く)番組ばかりで、フィリピンの「フ」の字も出てこない。これを詳細な情報が入らないので、と報道は逃げちゃうんだろうなぁ。そんなら行けよっ、フィリピンへ。
韓国の政治指導者が日本を避けて、あちこちの首脳と会談し、慰安婦がどうの、歴史認識がどうのと拡声しているのが鬱陶しいという報道なら、そんなものは、どうでもイイことだとしか、私にはいうことはナイ。だいたいやね、米国を共にしての同盟国とはいえ、韓国と日本は経済的には、アジアにおいてはライバルなんだから、韓国には日本が煩いに決まってんじゃん。サムスンこけたら、みなコケタなんだし、サムスンは法人税の特権を国家から受けていての成長とはいえ、融資しているのは、日本のメガバンクなんだから、タイトロープなのはいつも韓国のほうで、日本抜きで自立した経済をという、現指導者の経済政策はアタリマエのことだ。慰安婦や歴史認識なんてのは政治のカードにしか過ぎなくて、韓国が本気でそんなことを憂いて民族の問題にしているなどということなど、到底、私には信じられない。中国が偽装だの盗作だのでいっぱいだと罵られているが、日本映画、楽曲の海賊版が、最も多く出回っていたのは、文化交流を政府が禁じていた当時の韓国だということぐらいは知っておいたほうがイイ。これはけして韓国の国民を批難したり、責めているのではナイ。その根性に感嘆、賛意しているのだ。日本の小劇場演劇に早くから影響を受け、これを積極的に取り込んでいったのは韓国で、台湾より早いのではないかと思う。だから、政治的オリザ王子も、そこに目をつけての交流に動いたのだ。そういう彼の手腕、根性にもまた、感嘆、賛意の拍手をおくっておく。
しかし、とにかくフィリピンなんだよ、諸兄。私の貧者の一灯は、まさに貧者の私に出来る精一杯だが、小泉元首相の脱原発発言などという極めて幼稚に過ぎるヒステリーに血道をあげるより、報道することはあるだろう。どうなんだよ。(と、こっちも、ちょっとヒスパニクってますけども)

2013年11月12日 (火)

memory・2

島倉千代子さんが亡くなった日、ちょうど私は youtube で、『グッバイ・ジミー・グッバイ』を聴くためにウェブをつないで、そこからリンクするカタチで幾つか懐かしの「流行歌」を聴き、最後に島倉さんの歌を数曲聴いて、二階の仕事部屋から一階のリビングに降りると、母親は台所だったから、無人の部屋にテレビとエアコンだけが稼働していて、テレビはアップで島倉さんの顔写真を映しながら、彼女の訃報を語っていた。こういうシンクロニシティはままあることだが、またかいな、という気がした。いま、上で聴いてましたよ。とでも、テレビ画面に語りかけたくなる気分になった。
話の順序をもどす。『寿歌Ⅳ』の全日程を終了すると、翌日すぐに、東京で行なわれている『グッドバイ』(シス・カンパニー制作・寺十吾、演出、出演・段田安則、蒼井優、高橋克実、山崎ハコ、柄本佑、半海一晃)の読み合わせ稽古に参加するために名古屋から東京に向かった。このときすでに私は over limit で、疲労は限界をこえて、名古屋の公演中も、楽屋で寝転びながら、共同スタジオ特製の自然モニター(二階の楽屋の床に耳をつけると、一階のスタジオでの公演の様子が聴ける)で、ライブを聴いていた。上演直前の前アナのサービスはしたが、私に出来たのは、それと、大楽前の、気になる一部分のリテイクだけだ。
名古屋の宿がひどかったので、(なんしろ、名古屋最大の風俗街のど真ん中、タクシーの運チャンに行き先いうても知らんところ、一泊3900円の、ようするに、帰れなくなった客が泊まるか、お持ち帰りですぐにチョンの間が出来るような、ドアを開けると、子供用のベッドみたいなのがあるだけで、住居空間が二畳程度。再演などといいだしたら、今度はヒルトンに宿泊を条件にする)ウイスキーを毎晩あおって寝るしかナイようなところで、疲れなんざとれず、そんなこんなで、もう私は、ほとほと演劇などというのがイヤになっていて、鬱気も始まり、二度と演劇などとは関わりたくないという気分で、東京の世田谷のホテル(シアター・トラムへ3分、つまり稽古場へも5分、ここはgood)をアトにして、喫煙可能僅か五席のドトールでコーヒーすすっていたのだが、BGMで流れてきたカントリーが耳に留まり、すぐにスマホにメモをした。演劇やめるもどこへやら、これは使える、で、メモ。劇作家の業ですわ。タイトルはわからなかったが、歌詞の中に何度も「グッバイ、ジミー」と出てきたので、そんなのじゃないかなと、検索したら、ヒットした。『グッバイ・ジミー・グッバイ(Goodbye Jimmy Goodbye)』は1959年(昭和34年)キャシー・リンデン全米チャート11位の大ヒット曲で、B面の「悲しき16才」のほうは日本でヒットした。ジミーとは24才の時、自動車事故で亡くなったジェームス・ディーン(愛称ジミー)のことだ。
こんなふうにして、戯曲の題材、あるいは、motivation、または挿入歌、を拾いながら、一曲の戯曲を書いたことはよくある。『霧の中の少女』は初期の作品だが、劇団制作のものと、二人して喫茶店で「次のは、どんなんにしますかね」と、劇団レパの打ち合わせのようなものをやっていたとき、有線放送から、いきなりペギー・マーチの『霧の中の少女』が流れ出して、即座に私は、「これっ」、とタイトルを決めてしまって、相談もまとまった。映画やテレビに主題曲(歌)があるように、私は私の戯曲作品には殆ど必ず、そういう歌か曲を入れることにしている。「ものみな歌に初まり、歌に終わる」(出典、頭半分は歌謡グループ、上々颱風(シャンシャンタイフーン)、ケツ半分は花田清輝の創作歌舞伎)。塾生にも、そういうことを語るレクチャーもある。

2013年11月11日 (月)

ロスト・クライマックス

トーマス・マンの『魔の山』では、主人公のハンスが山林をぬって滑降するスキーのシーンが後半近くのクライマックスだったと思う。カミュの『ペスト』では、医師のリウー、タルー、グランたちだったと思うが、地中海だった(と思うが)襲いくるペストという不条理と闘い(反抗し)ながらも、そこで泳ぐひとときは、海の色まで鮮明で、そこだけが、清潔に澄み渡っていて、これもある意味ではクライマックスと呼んで相応しいのではナイだろうか。それらをクライマックスと呼ぶならば、太宰治のクライマックスを『HUMAN LOST』と指摘しても、コンパスの狂いではナイ。パビナール中毒で、精神病院に入院させられた、本来的人間(human)の、かくなるまでの文学的クライマックスは、そうあるものではナイ。
「なし、なし、かくまで深き、なし、なし、」で始まる入院中の日記模様は、「この五、六年、きみたち千人、私はひとり」「罰」「死ねと教えし君の眼わすれず」と続き「妻をののしる文」は、歯を食いしばって読まねばならぬ。そうして「私営脳病院のトリック」は、厭味ではなく、ある覚悟を迫り、やや長文はここに転写出来ぬが、短きコトバ、アフォリズムは、ナイフの如き切れ味をみせる。「私の辞書に軽視の文字なかった」「十二、三歳の少女の話を、まじめに聞ける人、ひとりまえの男というべし」「晩秋騒夜、われ完璧の敗北を自覚した」「一銭を笑い、一銭に殴られたに過ぎぬ」≪言わんか、「死屍に鞭打つ」。言わんか、「窮鳥を圧殺す」。≫「私が悪いのです。私こそ、すみません、を言えぬ男。私のアクが、そのまま素直に私へ又はねかえって来ただけのことです」
今日、私は、月例の診察に名古屋に行き、ついでの仕事で取材インタビューを受けた。相手は気心知れた旧知の記者だったので、おそらくは、彼との談話にしか登場しないだろう、「対幻想」の在り方からみた『寿歌Ⅳ』のゲサクとキョウコや、さらに、キビシイところでは、全編せりふのストレートさは何故なのかね、などと訊かれた。ただ、彼には、最後に用いた『パッペルベルの「カノン」』の意味づけがワカラナカッタらしく、どうも、変竹林な思いもした。まあ、それはいつものことなんだけども。いってみれば、新聞記者らしいなあと、そういうことだ。
とはいえ、今日は、殆ど分刻みで、鬱、鬱、ふつう、鬱、ふつう、の心的状況で、何か、とても、いいたかったことをいいわすれたような、胸のつかえというのが残った。アルコールはやめて、頼んだ『ひつまぶし御膳』の鰻が、生焼けで、生臭かったこともあるかも知れない。けれど、よくよく思い出してみると、それはちゃんと述べたようだ。
そこから、どういうワケか、殆ど十分前の記憶が曖昧になり、新幹線が何処に走っているのかを、一生懸命思い出していたりしているうちに、私は、飛行機に乗っているのだという勘違いに突然陥って、こんなに低空を飛んだら落ちるのではないかと、それが怖かった。座席シートにはベルトが無く、おかしな飛行機だなあと思っては、落ちるのが怖かった。
それでも、京都に着いて母親に電話して先に寝るようにいうと、少し安堵した。それから書き出しに用いた、マンの『魔の山』、カミュの『ペスト』の小説のシーンがイメージとしてやってきて、太宰の『HUMAN LOST』を思い出して、きちんとブログに書いてクール・ダウンしないと、嫁から電話があったら、オカシナことをいいそうで不安だった。ブログを書いている途中で嫁から電話があったが、「あなたはちっともオカシクないよ」といわれて、「十二、三歳の少女の話を、まじめに聞ける人、ひとりまえの男というべし」というコトバが太宰のにあったことを、また思い出した。ちょっと鬱のクライマックスだったんだと思う。

2013年11月10日 (日)

memory・1

今頃になって認(したた)めるのでメモリーということになるが、台湾の淡江大学 日本語文学系の『螺子と振子』上演が、内田康老師の紹介とご足労をもって、実現したのが、5月のことだ。まだお礼の手紙も書いていないという非礼さなのだが、このあいだ、感謝状とともにポスターが送られてきた。ポスターに使われている、主人公を含めた風景の写真がステキだ。嫁は、同行をちょっと渋っていたが、というのも、この嫁は、新幹線のグリーンに乗せたときも、グリーンは初めてで、階級の差をみせつけられているようで、いややな、てな顔をしていたからな。とはいえ、カラダをおおうように毛布をかけてやると、衣服を脱ぎ始めたので、アカンで、ここでナニしたら犯罪やで、といいきかせて、パンツを穿かせたんやけどな。若いと何しよるかワカランわ。幸か不幸か台湾では、パンツを脱ぐ余裕もなく、日程がつまって忙しく、特上の弁当などが出るのだが、どうも私の口にはあわなくて、そんでもって学生街の屋台で、美味いおやきをみつけてきてくれて、このおやきが、最初に内田老師他と一緒に会食した飲茶の店の焼売などについで、美味かったので、二度も食った。私が、食べ物に閉口していたので、適当にみつくろって買ってきてくれたのだが、そういうところには気のつく嫁なのだ。ただし、日本の着物に着替えたとき、礼式どおり下着を穿かないでいたかどうかはさだかでナイ。
大学はリゾート地にあるので、そこの最高級のホテル・レストランで歓待されたが、こんな苦情をいうと叱られるだろうが、要するに、ヘルスセンターを彷彿とさせるところで、バイキング料理も日本に比すれば味は三流。しかし、屋台の食い物は、軒並み安くて美味かったなあ。あれに勝てる日本のテキ屋はいないと思う。
と、食い物のことばかりいっててはなんなので、というワケではないが、学生たちの日本語による芝居は、ちょっと感動的ですらあった。というのも、私たちは、演劇を上演するのにたいてい自国語でやるが(あたりまえだけど)、台湾の学生たちは、まず、日本語(しかも、戯曲のコトバ)と格闘しなくてはならない。これは、実にタイヘンなことだと思う。というのも、いつだったか、私も『寿歌』が英訳されたので、英語での上演を試みたが、どうしても異国語では、ココロの機微がワカラナイから断念したという苦い経験があるからだ。
だいたい、日本語の正確な表現が目的での日本語学なのだが、戯曲の表現、演技というものは、そういうものを逸脱したところに面白みがあるから、二重三重の苦労だったろうと思う。それが、ちゃんと出来ていたので、私は(ちょっと偉そうに)終演後、それを褒めたりしたワケだ。しかし、この営為は簡単に私たちもスルーしてはいけないことだと思う。
ヘルスセンターもどきでの会食では、別の大学で日本の演劇を研究されている金老師(老師といっても若いのよ。教師、先生のことは、中国語ではみな老師だからな)との演劇談義は貴重な経験だった。日本よりも、日本演劇は研究されているのだ。
国境をこえるのは音楽だけではナイのだ。コトバも、国境をこえていく。韓国や日本のバカ政治家どもが、旧世代の化石化した歴史感覚に悶着しているが、民衆は、それほど愚かではナイ。文化、表現は、すでに私たちの世代において、対等に語られている。慰安婦には慰安婦の人生があったろうが、私たちはそんなことに拘泥しない。それはそれ、私たちは私たち、誤解をおそれず、そういっておく。

2013年11月 9日 (土)

コーヒー・ブレイク

希死念慮というものは、鬱病にはよく現れる精神現象だが、あくまで念慮だから、私のばあいもこのよく現れるヤッカイものを適当に処理することは、経験上学習している。つまり希死念慮は私のばあい、直截に自死に結びつかない。ああ、またかと思う程度に留まっている。ただ、ヤバイのは、論理的に、つまり理路の上で「死ぬのが最も正しい」と判断したばあいだ。
私はかねてから準備のシアン化カリウム(いわゆる青酸カリ)1g をポケットにしのばせて、同窓会から帰ったばかりの母親に「ちょっとコーヒー飲んでくる」と声をかけて、自転車にまたがると、行きつけの河畔の喫茶店までやって来た。シアンは致死量が300㎎だから、1gなら充分で、入手の方法をここでいうワケにはいかないが、さほど面倒なルートでなくても手にいれることが出来る。ただし、要注意なのは、その効果の期限だ。この僅かの粉末を、たとえガラス瓶に入れて密封しておいても、ほぼ3年で無毒になる。液状のアンプルにしても30年。某大家のあるミステリは、ここまで書くかというほど緻密で精緻(同じか)に書き込まれていたが、一つだけ、このシアン化カリウムの効能期限だけがマチガッテいる。
嫁は仕事があるとかいっていたが、たぶん寝ているだろうと思って、メールではなく電話してみた。案の定寝ていたので「寝てな。いまからコーヒーブレイクだよん、ほんじゃあね」とだけいって電話を終り、喫茶店に入って、白い粉の入った小瓶をカウンターに置きアイスコーヒーを注文した。そこでコーヒーに混入させて飲もうとしたのではナイ。河畔には公園があるから、そのベンチで服用すればそれでヨイ。私は、頭の中で何度も思案(洒落ではナイ)を繰り返した。いろんなことがもう終わった。まだ終わってナイこともあるにはあるが。そこで「死ぬのが最も正しい」のだが、強い憤懣、怒りのようなものがやってきて、ワケのワカラヌ涙がにじんできた。
私はインタビューで観客について質問されたときはいつも「今日、死のうと思っているひとがこの芝居を観て、もう一日生きてみようかと思ってくれるためにだけやってます」と答えていたが、それは、考えてみると、私の驕りでしかナイように思えた。驕慢である。威張っているだけだ。みくだしているだけなのだ。ほんとうは、私は助けてもらいたいのだ。神や仏などという超自然のものにではなく、ひとに助けてもらいたいのだ。助かるかどうかはべつにして、私を助けようとしてくれるひとがいるから、あるいは、将来、私を助けてくれるかも知れないひとに、私の関わった作品(舞台)を観てもらいたいのだ。
私はひとを救ったことはナイが、何度も救われた。そのお返しに芝居を書いている。そういうことに初めて気がついた。遅きに失したワケではナイ。
私の死を誰がどのように悲しんでも、私にはどうしようもナイが、1gの粉末を前にしての憤りや怒りは、私に対しての異議申し立てであって、おまえの罪状は、死に値しない、おまえが死ぬことによって、おまえの罪が消えるなどというのはオオマチガイだ、それは卑怯でしかナイ、おまえはもっと償わねばならないのだ、お返しが足らんよ、という叱咤打鞭だったようだ。また、誰かが助けてくれる。そのお返しに、また書かねばならない。
表現は一種の罪業だ。それを償うために表現すると、さらに重みを増していくという刑罰だ。死刑という温情ある判決と執行まで、まだ少々時間があるらしい。
鬱気の強い日は、というふうなことを考える。

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