ニュートン力学と量子力学の相関
11月に『恋愛的演劇論』を上梓するにあたり、三度目の著者校正をやってたとき、ついでに、最近買った『量子革命~アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突』という、えらいタイトルの書籍を、休憩時間に読んでいた。すると、面白いエピソードに遭遇した。ハイゼンベルクは、イメージというものに一切頼らず、実験とその結果から得られる数学的演算においてのみ、量子の動きを説明しようとしていたのだが、たしかに実験ではそうなるのだが、演算が一つだけどうしても合わない。しかも、それは小学生にでも解けるような演算で、(A×B)-(B×A)=(B×A)-(B×A)にならないというものだった。これさへ解ければ、量子の力学に革命的な論説が与えられるのだが、どうしても、そうならないのだ。
そこで、彼は当時の物理学者の知己の多くに、手紙を書いたのだが、これを真に受けて考えたのは、ボルンひとりで、かつ、ボルンが、その理由をみつけ出したのだ。それは実に簡単なことだった。行列計算だったのだ。しかし、当時は行列の概念は、数学的にまだ始まったばかりで、ハイゼンベルクには、まったく行列の知識がなかった。
もちろん、私にも知識は殆どナイから、どうやって行列計算から、そうなるのかは、ワカラナイ。ワカラナイので、頭を抱え込んだが、量子の運動を測定するとき、量子を飛ばす順番によって、測定値がチガウのだということは勉強していた。たぶん、それに関係するのだろう。量子力学はこのように、簡単な算数の日常的な感覚をすら、変えてしまう。いや、変えてしまうというのは厳密な意味で正しくはナイ。自然を量子は変えるのではなく、量子力学のほうが正しい自然で、私たちのイメージのほうが間違っているのだ。
これはニュートン力学が間違っていて、量子力学が正しいということを、すぐには意味しないのではないかと、私は、前述した演劇論を書き上げて、そう思った。私の稚拙な推察では、ニュートン力学も、量子力学も、根本は同じで、その姿(形態)が変化しているのに過ぎないのではないかというものだ。どうしたって一枚の鉄板は固形の鉄板なのだが、この鉄が(元素記号は Fe)原子の段階まで微細化されると、まるで、スカスカの量子の集合になってしまう不思議と同じだ。どちらも「鉄」にチガイはナイのだが、私たちはスカスカの鉄という姿(形態)もまた、受け入れなければならない。どっちも正しいのだ。
もはや世界(自然)は、私たちの前に二通りの真実の姿をみせている。これは、私などの偏屈もんにとっては、すこぶるオモシロイことだ。いま私は、パソコンに向かって打鍵しているが、これは固形物(という姿=形態)でもあるが、電子(という姿=形態)と戯れていることでもある。keyをtouchする。その行為が、電子に及ぶ。なんともステキな関係を私たちは味わっているではないか。この時代に生まれてよかったなぁ。
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