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2013年10月

2013年10月20日 (日)

かけがえのない命

「あなたがたは、ひとり一人個性のあるべつべつの人間だ。そして、その命はかけがえがナイ」と、これは、実はナチス・ドイツの総統ヒトラーが、若きドイツ兵士を前にして行なった名演説、訓示の一部だ。取り出してみるとウソみたいだが、ヒトラーはそういっている。それは、兵士たちの胸に響く。ところで、この後、この演説はこう続く「その命を、我が祖国を守るための盾として闘ってくれることに、我々ドイツ国民は誇りと熱烈な愛を感ずる」。どう、ね。ますます兵士は鼓舞されただろう。
ところで、同じことをいってるひとが、いま日本にはいるんだなあ。
「仲間が、同志が、盟友が苦しんでいる。それを見過ごして甘んじるのは、日本国民としての恥である」、と、まあ、この通りのことをいってるワケではナイが、要約翻案するとそういってる。「私たちは私たちだけが平和であることに甘んじていいのか」。いいと思うけど、ね。そうもイカンらしい。そこで、「集団的自衛権」てのが出てくる。さあ、自衛隊、今度はマジでイノチガケだぜ。同盟国、友好国が危機にさらされている。よし、出動。あのね、科特隊が、怪獣が現れたからひょいと出動するのとは、ワケがチガウのよ。「集団的自衛権」などという長ったらしいお題目は不要だ。「交戦権」で充分だ。日の丸の旗が被せられた柩が、並べられて、総理大臣が哀悼の辞を述べるのだ。
イラク戦争のときだったか、時の宰相、小泉さんは自衛隊を派遣したが、銃火器は拳銃程度を所持するのみで、他国の兵士に守られながらの活動だった。持っていけよ自動小銃くらい。スイスじゃ、一家に一丁所持することが権利づけられてるんだぜ。で、給水車で巡回だ。何で、井戸掘らんの、水道工事せんの。水道つくったら、敵にまた破壊されるのかな。そうしたら、水道保守決死隊で、水道を守るため、ずっとそっちに派遣すりゃいいじゃナイの。それでも、戦闘になるわな。誰か運悪く死ぬわな。けどよ、その死と、「集団的自衛権」という戦争における死とでは、なんかチガウ気がすんのよ。死んだら同じか。ほんとにそうか。命がけというのはエライもんや、しかし、とどのつまりは骸になってしまうことや。問題は命のかけ方ではありませんか。オレね、もし、いま、いまよ、いま。「集団的自衛権」で戦争行けいわれたら断固拒否するけど、水道決死隊になら志願する。何故なら、そこには日の丸関係ナイからや。その国の人々のために、自分らでつくったものを守る。それだけや。それだけの意地や。もうそんなに余生のある命ではナイ。自動小銃手にして、夜の荒野に目を向ける。ええな。かけがえのない命の使い方の一つとしては、温泉巡りしてるよりはエエわ。

2013年10月19日 (土)

同化現象

老化現象というのは身をもって知っているが、最近、この「同化現象」というものの、強度が増してきた。「同化」というのは、演劇でいえば、スタニスラフスキーの主張した、役への入れ込みだが、日常的には、本を読んだり、ドラマを観たりして、その主人公の思いに自分の思いを重ねる、というふうな、誰しもやってるものだ。
誰しもやってるから私もそうなのだが、こいつが、最近、強いのだ。『量子革命』という量子力学の成立史を読んでいると、各々登場する理論物理学者に同化して、その熾烈を極める論理の闘いの渦に巻き込まれる。ここんとこ強いのは『ニキータ』(TVドラマ・シーズン3)で、オレも巨悪と闘わねば、から、このピンチをどう切り抜けるかまで、を真剣に考えてしまう。(このドラマの秀逸な点は、毎回、切り抜けるのが不可能に近いピンチが設定されているところにある)最終話では、およそ最大のピンチ(こんなplot、よう考えよるなあ、オレのホンなんかまだまだアカンわ)をめくるめく切り抜けた主人公たちのグループが、愛の強さがこのピンチを切り抜けた最大の要因だということを確認し、明日への結束を誓うというところで、思わず涙ぐんでしまった。こんなベタなのに。しかし、そのアトのラストのプロットは、次のシーズンにつなげるためとはいえ、蛇足だったと思う。とはいえ、毎度、脱出不可能と思えるsituationに主人公たちを追い詰めるこの脚本はみごとなものだと思う。ふつうでナイのは、日本のドラマなどでは、たいてい一つの解決策があって、それをナントカうまくやり遂げるというふうになるのだが、こいつの脚本家は、そのたった一つの解決策をいともたやすく微塵に消滅させてしまう。頼みの綱を簡単に切ってしまう。さあ、ここからだぞ、と、まるで、挑戦状だ。およそどう考えても主人公たちに勝ち目はナイ。さらに主人公たちが起死回生に打つ手を見透かしたかのように、阻止までしてしまって、さあ、どうなる、とくる。こうなるとコンピュータと詰め碁をやってるようで、もうアキマセン。
「同化」を深めれば、それは、自己が自己に同化していることになるのだが、このへんはやりだすと面倒なので、やめとく。
ひとこと、つけ加えておけば、最近流行りのコミュニケーションの方法論とやらは、ある言語ゲームの集合を逸脱すると、何の効力もナイ。こんなことをいえば、また変に思われるかも知れないが、コミュニケーションというのは突き詰めれば「独り言」なのだ。直接に相手がそこに存在する場合においても、他者を通しての独り言といえる。この最たるものが「沈黙」であるのはいうまでナイ。「同化」はこの「沈黙のコミュニケーション」といってイイ。

2013年10月10日 (木)

ニュートン力学と量子力学の相関

11月に『恋愛的演劇論』を上梓するにあたり、三度目の著者校正をやってたとき、ついでに、最近買った『量子革命~アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突』という、えらいタイトルの書籍を、休憩時間に読んでいた。すると、面白いエピソードに遭遇した。ハイゼンベルクは、イメージというものに一切頼らず、実験とその結果から得られる数学的演算においてのみ、量子の動きを説明しようとしていたのだが、たしかに実験ではそうなるのだが、演算が一つだけどうしても合わない。しかも、それは小学生にでも解けるような演算で、(A×B)-(B×A)=(B×A)-(B×A)にならないというものだった。これさへ解ければ、量子の力学に革命的な論説が与えられるのだが、どうしても、そうならないのだ。
そこで、彼は当時の物理学者の知己の多くに、手紙を書いたのだが、これを真に受けて考えたのは、ボルンひとりで、かつ、ボルンが、その理由をみつけ出したのだ。それは実に簡単なことだった。行列計算だったのだ。しかし、当時は行列の概念は、数学的にまだ始まったばかりで、ハイゼンベルクには、まったく行列の知識がなかった。
もちろん、私にも知識は殆どナイから、どうやって行列計算から、そうなるのかは、ワカラナイ。ワカラナイので、頭を抱え込んだが、量子の運動を測定するとき、量子を飛ばす順番によって、測定値がチガウのだということは勉強していた。たぶん、それに関係するのだろう。量子力学はこのように、簡単な算数の日常的な感覚をすら、変えてしまう。いや、変えてしまうというのは厳密な意味で正しくはナイ。自然を量子は変えるのではなく、量子力学のほうが正しい自然で、私たちのイメージのほうが間違っているのだ。
これはニュートン力学が間違っていて、量子力学が正しいということを、すぐには意味しないのではないかと、私は、前述した演劇論を書き上げて、そう思った。私の稚拙な推察では、ニュートン力学も、量子力学も、根本は同じで、その姿(形態)が変化しているのに過ぎないのではないかというものだ。どうしたって一枚の鉄板は固形の鉄板なのだが、この鉄が(元素記号は Fe)原子の段階まで微細化されると、まるで、スカスカの量子の集合になってしまう不思議と同じだ。どちらも「鉄」にチガイはナイのだが、私たちはスカスカの鉄という姿(形態)もまた、受け入れなければならない。どっちも正しいのだ。
もはや世界(自然)は、私たちの前に二通りの真実の姿をみせている。これは、私などの偏屈もんにとっては、すこぶるオモシロイことだ。いま私は、パソコンに向かって打鍵しているが、これは固形物(という姿=形態)でもあるが、電子(という姿=形態)と戯れていることでもある。keyをtouchする。その行為が、電子に及ぶ。なんともステキな関係を私たちは味わっているではないか。この時代に生まれてよかったなぁ。

2013年10月 8日 (火)

感想『少女仮面』桃園会10/05・アイホール

なるほど時代は変わった。世相が変わった。演劇は「情況の子」だ。社会情況が変容するからには、演劇もまた変容を余儀なくされる。
当日Aプロ、Bプロ、両方を招待(つまりタダ)で観劇させて頂いた。主にAプロに主眼をおいて、感想を述べてみる。
唐さんの影響を受けて演劇を始めた世代のひとりである私にとっては、状況劇場のインパクトはあまりに大きく、また、いまとなっては強いnostalgieとなっているので、これを払拭するのに少々時間を費やした。とはいえ、次第に桃園会、深津演出に入っていくことが出来た。それだけでも、この舞台はたいしたもんだと思う。少女(貝)に森川万里をキャスティングしたのは、大きな成果だろう。彼女はコメディアンヌの素質があるからナ。老婆の隈本晃俊もパンフに25歳とあったが、ちょっと末恐ろしいくらいの出来だ。つまり、赤テント当時の役者の演技は「自分を笑う」ということにあったからだ。これは唐さんのホンの本質からきている。鯱張った世間に対して「フザケテみせる」というスタンスだったのだ。ところが、いまは芝居よりも世間のほうがフザケているから、芝居で役者がいくら「自分を笑おう」と、観客は「ここは、笑っていいのだろうか。何か深遠な意味でもあるのだろうか」と、逆に悩んでしまうのだ。私の観た赤テントは、いつも観客の笑いの渦だった。さらに「この世で最も恐ろしいものは、少女フレンドを抱えた老婆だ」という唐さん特有の警句も、いまの世間ではアタリマエになって通用しない。と、すると、芝居にとっていま、最も難しいことは、この世相、世間に対して「如何にフザケるか」なのかも知れない。それは、表層的ではナイ、時流にものらない、大真面目な「せっぱつまった哀切さ」と「のっぴきならない狂気」とを同時に持たねばならないような気がする。
私は、せりふを聞きながら、いまなお私自身の戯曲のベースに唐さんのゆらぎがたゆとうているのをあたたかく感じた。相対化したはずなのになあ、と苦笑した。
いまひとり、特筆しておきたいのは、「水道飲みの男」の橋本健司だ。この役者だけは、私が観た赤テントの役者の肉体を未だに持っていたように思えた。そこからやって来たのではないかと錯覚したくらいだ。「なんでもナイ男が恐ろしい」のだ。あのpotential energie はタイセツにすべきだろう。
時代も世相も変わった。最も変わったのは、従って観客だということになる。商店街のはずれに立てられた赤いテントの中で、ごろりとなりながら、笑い転げたあの観客は何処へ消えたのか。消えたのは、なにも「肉体」だけではナイのだ。

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