かけがえのない命
「あなたがたは、ひとり一人個性のあるべつべつの人間だ。そして、その命はかけがえがナイ」と、これは、実はナチス・ドイツの総統ヒトラーが、若きドイツ兵士を前にして行なった名演説、訓示の一部だ。取り出してみるとウソみたいだが、ヒトラーはそういっている。それは、兵士たちの胸に響く。ところで、この後、この演説はこう続く「その命を、我が祖国を守るための盾として闘ってくれることに、我々ドイツ国民は誇りと熱烈な愛を感ずる」。どう、ね。ますます兵士は鼓舞されただろう。
ところで、同じことをいってるひとが、いま日本にはいるんだなあ。
「仲間が、同志が、盟友が苦しんでいる。それを見過ごして甘んじるのは、日本国民としての恥である」、と、まあ、この通りのことをいってるワケではナイが、要約翻案するとそういってる。「私たちは私たちだけが平和であることに甘んじていいのか」。いいと思うけど、ね。そうもイカンらしい。そこで、「集団的自衛権」てのが出てくる。さあ、自衛隊、今度はマジでイノチガケだぜ。同盟国、友好国が危機にさらされている。よし、出動。あのね、科特隊が、怪獣が現れたからひょいと出動するのとは、ワケがチガウのよ。「集団的自衛権」などという長ったらしいお題目は不要だ。「交戦権」で充分だ。日の丸の旗が被せられた柩が、並べられて、総理大臣が哀悼の辞を述べるのだ。
イラク戦争のときだったか、時の宰相、小泉さんは自衛隊を派遣したが、銃火器は拳銃程度を所持するのみで、他国の兵士に守られながらの活動だった。持っていけよ自動小銃くらい。スイスじゃ、一家に一丁所持することが権利づけられてるんだぜ。で、給水車で巡回だ。何で、井戸掘らんの、水道工事せんの。水道つくったら、敵にまた破壊されるのかな。そうしたら、水道保守決死隊で、水道を守るため、ずっとそっちに派遣すりゃいいじゃナイの。それでも、戦闘になるわな。誰か運悪く死ぬわな。けどよ、その死と、「集団的自衛権」という戦争における死とでは、なんかチガウ気がすんのよ。死んだら同じか。ほんとにそうか。命がけというのはエライもんや、しかし、とどのつまりは骸になってしまうことや。問題は命のかけ方ではありませんか。オレね、もし、いま、いまよ、いま。「集団的自衛権」で戦争行けいわれたら断固拒否するけど、水道決死隊になら志願する。何故なら、そこには日の丸関係ナイからや。その国の人々のために、自分らでつくったものを守る。それだけや。それだけの意地や。もうそんなに余生のある命ではナイ。自動小銃手にして、夜の荒野に目を向ける。ええな。かけがえのない命の使い方の一つとしては、温泉巡りしてるよりはエエわ。